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No.139 完了の杯 2015.6.28

完了の杯

 あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。<ルカ22:37>
 弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。<ルカ22:38>
 
 弟子たちは、イエス様のお言葉に対して、とてもトンチンカンな返事をしました。
 イエス様がユダに裏切られ、渡される夜のことです。いよいよイエス様が一人で十字架への道を進んで行かねばならない時が迫っていました。
 しかし、この時イエス様のお心を理解できた弟子はいたでしょうか。祈りで支えてくれるはずの弟子たちには、まだ良くわかっていなかったのです。世の人々にとって、イエス様が捕らえられる時は、イエス様に対する見方が180度変わってしまう時でもあります。
 「ユダヤの王」として君臨するはずが、「ユダヤの王」は十字架上の「罪状書き」に変わってしまうからです。
 弟子たちにも降りかかってくる霊の戦いは、目前に迫っているのです。しかし。弟子たちからは「イエス様、大丈夫です」「お任せください剣が二振りあります」という返事しか返って来ません。イエス様は「それでよい」と言わざるを得なかったのですね。
 
 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。<ルカ22:42>
 
 「この杯」は、過越しの食事の「完了の杯」を意味するものです。私たちの魂の「過越しの完了」です。これは「十字架による贖いの完了」なのです。
  
 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。<ヨハネ19:28>
 
 「酸いぶどう酒」を含ませた海綿をヒソプの枝に結び付けて、十字架上のイエス様の口元に差し出すと、イエス様はそれをお受けになりました。そして「すべてが終わった」と言われたのです。私の生や死は、自分のことですが、イエス様の生と死は、全ての人のためでした。
 
 かつては、わたしもサタンの支配する世にとことん負けていました。私たちは神様の存在を知りながらも世の誘惑や、楽しみからなかなか抜けられないものです。
 しかし、イエス様はこんな愚かな私をも愛し、私のすべての罪を背負って死んでくださいました。私の魂は罪から解放されました。イエス様がたった一人で十字架上の「完了の杯」を受けてくださったからです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-06-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.138 走りぬくべき行程を走る 2015.6.21

走りぬくべき行程を走る
 
 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。<第二テモテ4:7>
 
 過去つらい人生を歩んできた人であっても、今、笑顔あふれる生き生きとした顔を見せているなら、この人が昔は苦しみと悲しみの中で毎日泣いていた人だとは誰も気づかないでしょう。
 心の中を主に明け渡した人は、過去がどのように最悪と思える人生であっても、主に出会うことによって「私の人生のすべてが変えられた」と言えるからです。
 
 私たちの生きている価値は、どうやら私たちの今の姿にあるようです。
 「戦いぬいてきた、走りつくしてきた、信仰を守りとおしてきた」とパウロがきっぱり言えるのは、今、パウロ自身に、このことを言わせて下さるイエス様との信頼関係があるということです。言いかえれば、これが信仰です。聖霊様がそう告白させてくださるのです。
 
 十字架にかかる前の晩、イエス様が、ペテロに言いました。

 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。<ルカ22:31,32>
 
 「シモン、シモン」とイエス様はいかに愛をもってペテロに声をかけたことでしょうか。
 この後、ペテロはイエス様の言われたとおり、イエス様を「知らない」と言ってしまいます。それは今までの失敗とは違って、イエス様への裏切りとしか思えない失敗です。そのことでペテロは、本当につらい思いをすることになります。
 しかし、イエス様は父なる神様にとりなしてくださいました。
 「信仰がなくならないように」です。
 
 ペテロはイエス様を心から愛していました。弁明をしに、また、代わりにムチを受けに飛び出て行きたいほどの情熱が、ペテロの心の中にはあったはずです。
 しかし「知らない」と言ってしまった時、ペテロは自分の弱さを知りました。本当に「心は熱すれど、肉体は弱い」。臆病な自分を、自分ではどうすることもできなかったのです。
 その後、ペテロは立ち直ります。みことばのとおり「力づけてあげられる」ペテロに変わります。イエス様はそのときのペテロを見て、ご自身がそうしてくださったにもかかわらず、「信仰を守りとおしてきたね」と、言ってくださるのではないでしょうか。
 
 今の私たちにもイエス様が同じように「走ってきたね、守りとおしてきたね」と言ってくださることを信じています。なんという愛でしょう。(た)
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by mitiru-takae | 2015-06-23 16:59 | 満ちる | Comments(0)

No.137 神の国で過越が成就する時 2015.6.14

神の国で過越が成就する時
 
 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。<ルカによる福音書22:15,16>
 
 イエス様は使徒たちと過越の食事をしたいと切に望んでいたらしいことがわかります。イエス様のたとえ話には、よく宴会の話、また食事の話が出てきます。黙示録にいたっては、「戸をあけてくれるならば・・・」と、イエス様が心の扉をノックしている様子を想像することが出来ます。
 
 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。<ヨハネの黙示録3:20>
 
 イエス様が十字架で流された血潮は、旧約聖書の出エジプト記に書いている二本の柱とかもいに塗られた子羊の血のように、私たちの魂に塗られた血のしるしです。神様が命を保証してくださっている血のしるしなのです。
 
 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。<出エジプト記12:13>
 
 命を保証する血を流しに行かれる前に、このことの意味を表す、過越しの食事を使徒たちと共にしたいのだというイエス様の切なる願いはこのときの使徒たちにはわからなかったかもしれません。
 しかし、イエス様は過去も未来も今も同時に見られるお方です。この過越の食事をどれほど大切に思ったでしょうか。
 イエス様と共にある愛餐の時は、今の私たちにとってもすばらしいときです。
 それは、神の国において過越が満たされる時ですし、私たちの魂の中に神様の義とイエス様の愛が満たされるときであるのです。
 主が天の国をわたしの魂の中に実現しようとするとき、生死をわけた過越が、私の中で起こっているわけです。そして私たちのうちに過越が成就するのです。
 神様と私たちの完全な和解が成立します。
 
 使徒たちを愛したイエス様が、私たちとも同様に共に愛餐のときをすごしたいと願ってくださっている、そんな気がして嬉しくなりますね。(た)
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by mitiru-takae | 2015-06-17 16:55 | 満ちる | Comments(0)

No.136 神様の望み 2015.6.7

神様の望み
 
 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。
 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。<使徒行伝2:30~32>
 
 ダビデの預言どおり、イエス様は黄泉にくだり、捨て置かれるどころか、死と黄泉に勝利し、イエス様を信じるものが、死と黄泉に支配されないように、勝利の道をあらかじめ定めてくださいました。
 
 ペンテコステの日、使徒たちは、イエス様が約束してくださった聖霊に満たされました。ペテロたちは立ち上がったのです。
 彼らはガリラヤ湖の漁師であり、また多くの人からお金を巻き上げていた収税人でした。血気にはやる過激派でもあり、寡黙な人間でもありました。色々な状況の中から、イエス様に導かれ、見つけ出されて、イエス様についてきた人々であったのです。
 使徒たちが聖霊に満たされたとき、それはまるで、別人を見ているようだったでしょう。イエス様を裏切り、逃げ、うそをついてイエス様には顔向けできない状態の使徒たちが、復活のイエス様にお会いし、40日間過ごすうちに、初めて自分たちの弱さを知り、イエス様の深い愛と神の御子としての権威を知ったことで、新しく創りかえられ、聖霊を受ける準備を整えられていったのです。
 
 主の霊が降る時、はげしい油注ぎがありました。
 ペンテコステの祭りの時、聖霊に満たされたペテロのメッセージには、目を見張るものがあります。「あれはガリラヤ人ではないか」と人々がびっくりするのも無理のないことです。
 ユダヤ人として、ユダヤ人の救いを一番に願いたいであろうペテロですが、聖霊に満たされると、自分の思いではなく、神の御心を聖霊によって語らせられていました。
  
 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。<使徒行伝2:38、39>
 
 イエス・キリストは世の始まる前から、十字架の贖いと救いを私たちのために用意してくださいました。人間にとっては、イエス様の死も復活も、ただ不思議に思うだけのことかもしれません。しかしこのことは人の思いによらず、神様の側の必然の計画であって、それは神様が私たちに望んでおられる「一人も滅びないで」を完成させることなのです。
 ユダヤ人も異邦人も、そして私も含めてイエス様を信じる者はすべて「神の召しにあずかるもの」と言えるのです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-06-11 14:42 | 満ちる | Comments(0)