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No.135 二つのものが一つになる日 2015.5.31

二つのものが一つになる日
 
 あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。各自の家から、十分の二エファの上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を携えて、奉納物とする。これは主にささげる初物である。<レビ記23:15~16>(新共同訳)
 
 使徒行伝第2章をみると、ペンテコステ(五旬節)の朝、使徒たち一人ひとりの上に聖霊がくだり、異言で語り始めたということ以外、ペンテコステがどういうものなのかユダヤ人でない私たちにはよくわかりません。
 しかし、レビ記をみると、主の祭りについての規定が詳しく書かれています。過越しの祭りでは、パン種を入れないパンを食べました。このペンテコステではパン種の入った、つまり酵母を入れてパンを焼き、二つを主の御前にささげなさいと書いています。
 パン種という表現は普通、パリサイ人のパン種というように、罪を表わすことが多いようですが、そのパン種を入れたものをなぜ神様にささげるのでしょうか。
 聖霊に満たされた使徒たちは主の示す場所で祈り待っていました。エルサレムの町には、この日ペンテコステの祭りのため多くの離散していたユダヤ人たちが集まっていたのでしょう。この日信じた人々はバプテスマを受け、仲間に加わったものが3000人ほどもあったというのです。
 この時、聖霊の満たしによって一つとされた人々は、罪のない人たちであったでしょうか。いいえ、そんなことはありません。パン種の入ったパンのように、罪深いまま主の御前に出ました。聖霊が魂を主の御前にと促してくださったのです。主はありのままの私たちの心を受け取り、きよめてくださいます。
 
 旧約聖書のルツ記を見てみますと、異邦人のルツと、やがてダビデの家系となるボアズが結婚することがわかります。異邦人とユダヤ人をひとつにし、系図はイエス・キリストの誕生へと続いていきます。<エペソ書2:14~15>にあるように、二つのものが一人の新しい人へと造りかえられるのです。
 また、過越しの祭りのときに死なれたイエス様は、安息日の翌日、週の初めの日(今の日曜日)に復活しました。
 そして、その安息日の翌日から数えて50日目、ペンテコステ(パン種の入ったパンをささげる日)の日に、人々は聖霊によって、イエス・キリストと一つになることが出来たのです。
 
 イエス様の十字架の死、復活、ペンテコステでの聖霊による一致が、二つの体を一つの体として和解させ、敵意を十字架につけて滅ぼしてしまった<エペソ2:16>のです。神様との和解は、イエス様抜きではありえません。(た)
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by mitiru-takae | 2015-05-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.134 あなたの救いのために来られた 2015.5.24

あなたの救いのために来られた
 
 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。<ルカ19:9,10>
 
 あなたには、「私は救われています」という自覚があるでしょうか。「死んだときは必ず天国にいけます」という確信があるでしょうか。それとも、「そんなことは考えてみたこともない」人でしょうか。
 
 私の父は、この手の質問をよく投げかけてくる人でした。若いころの私は「はい」と即座に答えることが出来ず、つい言い訳をしてしまう者でした。「孝枝の信仰は頭でっかちだ。信仰は理屈ではないよ。」とよく言われたものです。
 「自覚があるかといえばよくわからないけれど、多分救われているはずです。」「実際死んでみないと、果たして即天国に行くのか、いえ決して地獄には行かないはずです。私は救われていて、必ず天国に行けます。そうです、確かにそうです。」
 
 そうは言ってみても、この世のもので天国行きを保証してくれる形あるものなど、なにもないのです。
 私たちは何をもってこの「救いの確信」を得ることが出来るのでしょうか。
 
 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。<エペソ1:13>
 
 ザアカイに言われたイエス様のお言葉は、ザアカイ自身、そしてその家のものに救いをもたらしてくださったのです。これこそ、「真理の言葉」すなわち今の私たちも聞くことが出来る「救いの福音」なのです。
 そして、信じた(信じたいと思った)時、聖霊様によって「イエス様は私の救い主」という告白と確かな証印を、魂の中に押されたのです。
  
 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。<ローマ10:17>
 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。<ローマ10:10>
 
 私たちの「救いの確信」というのは、実は、私に対して持ってくださっているキリスト・イエスご自身の「あなたを救った」という信仰そのものであり、それは聖霊様により私のうちに保証されている確かなものなのです。
 「私は救われている」と喜びと自信を持って日々告白していきましょう。(た)
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by mitiru-takae | 2015-05-27 15:43 | 満ちる | Comments(0)

No.133 灯台もと暗し 2015.517

灯台もと暗し
 
 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。<ルカ17:20,21>
 
 「神様はどこにいるのですか、宇宙の何処かにいるのですか。」
 神様を知らない人は、このような質問をします。
 
 「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」と、詩篇19篇にあるすばらしい宇宙観は、まさしく全宇宙が神の御手の業だと知っているということであるし、宇宙全体がこぞって創造主を知っており、認めているということでしょう。
 天地が創られたとき、そこにイエス様も神様と一緒でした。聖霊様も共にいたのです。そして今もずうっと共にいてくださっています。
 
 私たちの知っている時間を超越して、昔いまし今いまし、これからも共にいますイエス様を、わたしたちは知ることが出来ます。いったい誰がこんなことを教えてくれるのでしょう。
 
 神様を知らない人には、わからないのです。神様を知ろうとしない人には、理解することが出来ません。
 それは、日本の国をただ、日本の国土として、また政治経済による理解しかできないのと同じです。
 日本人の持つ気質、風土に合った生き方、私たちの心の奥にある、自分の国としての日本を、私たちが外国の方々に理解してもらうには、ある程度、共にすごして、説明していかなければよくわかりません。それでもなお難しいものでしょう。
 このように、本当にその国を知るためにはその国に行って共に生活し、生きることが一番です。私たち人の心も同じことが言えます。
 
 「神様はどこにいるのか」の答えは神様によって知らされます。
 先週日曜日の礼拝後、「母の日」の祝いの食事を終えて少数の姉妹方と、思わぬ祈りの時を持つことが出来ました。
 そのとき、ある姉妹の祈りの中で「神様、私たちのうちに神の国を実現してくださってありがとうございます。」という感謝の言葉を聞きました。まことにそうです。アーメン!
 
 確かに神の国は、私たちの只中に実現しています。
 インマヌエル(神はわれらと共に)の主が、私のうちに生きてくださっています。「なーんだ、イエス様灯台もと暗しじゃないの」ですね。ワッハッハ!(た)
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by mitiru-takae | 2015-05-22 10:11 | 満ちる | Comments(0)

No.132 信徒一泊セミナー/からし種一粒ほどの信仰があれば 2015.5.10

信徒一泊セミナー(テーマ「祈り」)
 
 一泊セミナーの始まりは、焼肉大会でした。しかし、あわやのところで屋内の「ホットプレート焼き肉大会」に変わるところだったのです。
 午前中は曇りで、何とかできるかなと思ったのですが、いざ、お昼になると雨で火もおこせない状態となってしまいました。あきらめかけていた時、ある姉妹の声かけで、教会の玄関横の屋根がある狭いスペースで炭をおこし、お肉を焼くことになりました。
 牛肉、豚肉、鳥肉、ウインナー、大きなえび、帆立貝、野菜、そしてホットプレートで焼いたお好み焼き、焼きそば・・・と、すごいご馳走となりました。
 食べて満足したあとは、残りが次の日(その日の夕食は残り物でなくあっさりした食事がでたのですが、これにもびっくりでした)の朝食、昼食と、品をかえて食卓を彩り、まるで12のかごいっぱいに残った奇跡のパンのようでした。
 恵みは、肉(笑)の食べ物に収まらず、全三回のセミナーは、それぞれ大きな主の恵みで満たされました。
 第①セミナー(祈りは預言)では賛美と祈り、とくに祈りは預言的でした。
 第②セミナー(祈りについての瞑想)では、ヨハネの福音書でのイエス様の「ゲッセマネの祈り」の箇所から瞑想し、それぞれの感じたこと、示されたことを分かち合うことが出来ました。
 この御言葉の瞑想による分かち合いでは、ほとんど「木曜日の聖書学習会」とおなじことをするのですが、普段、何も言わない人も自分の思いを注ぎだしてしまうという不思議な聖霊様によるお導きがあり、互いにびっくりすることがしばしばです。
 第③セミナーはヨハネによる福音書21:15~17から、「祈るほどに自分を知る」と題してのメッセージでした。賛美、祈りは言うまでもなく大きな恵みを受けることが出来ました。c0265111_14473685.jpg
 「信徒一泊セミナー」は私どもの教会では結構歴史がある行事ですが(今はセミナーというよりもギャザリング、そしてワークショップですね)、今回も、今までに引き続き導かれましたことを深く感謝しています。(た)


からし種一粒ほどの信仰があれば
 
 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。
 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。<ルカ17:6、7>
 
 私たちの信仰がたとえどんなに大きく増えたとしても、イエス・キリストの「からし種一粒ほどの信仰」にもなりません。しかし、イエス様の信仰が私の中で確かなものであれば、それは大きさや量に関係なく、イエス様のお言葉通りになるのです。(た)


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by mitiru-takae | 2015-05-13 14:49 | 満ちる | Comments(0)

扉をあけて、日々主と共に 2015.5.3

扉をあけて、日々主と共に
 
 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。<ルカ14:21>
 
 イエス様は、たとえ話をされました。
 「ある人が、盛大な晩餐会を催しました。開催時刻がきたので再度の招きをしましたが、なんと皆、色々な言い訳をして招待を断り、誰も来ません。当然、主人は怒ったのですが、とにかく、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』といって、参加者を集めたのです。」というお話です。
 
 しかし、それでも宴会の席は埋まってしまわなかったというのですが、「私の晩餐にあずかるものは一人もいない」とは、きびしいお言葉だなと思ってしまいます。
 「では、いったい誰がこの晩餐にあずかることができるのでしょう」という弟子たちの声がきこえてきそうですし、私たちもそう思います。
 
 たとえ話では、ある人ですが、ここではイエス様が「私の晩餐」と言っています。
 招かれる人は、果たして誰も主の晩餐に預かることができないというのでしょうか。つまりこれは、救われる人がいないといっているのです。「招かれた人=断った人」なのですから。
 ところが、イエス様に癒された人々や、収税人ザアカイのように、招かれてはいないが、イエス様に清められ、罪を許され、食事を共にしている人々がいることに気づかされます。
 かえって、イエス様のほうから近寄ってきてくださっているのです。
 
 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。<ルカ19:5>
 
 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。<ヨハネ黙示録3:20>
 
 私たちの罪が許され、救いを受けることができるのは、招きをも断り、いつも言い訳をし、自分勝手に振舞う私たちであっても、イエス様のほうから近づいて来て心の戸をたたき、声をかけてくださるという「ただ、主の豊かなあわれみ」によるからです。
 イエス様を私の心の中に迎え入れることこそ、私たちが日々イエス様とすごすための「イエス・キリストの福音のはじまり」なのです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-05-08 10:05 | 満ちる | Comments(0)