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聖霊様の働きの不思議さ 2015.3.29

聖霊様の働きの不思議さ
 
 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである<エペソ2:14~16>
 
 笑いと賛美でベテルチャーチ宣教チームによるミニストリーが始まった。

 当初、大分ブレッシング主催ということで、賛美も司会も他の二教会にお願いしていたのだが、N先生のお声かけにより「キリストの福音大分教会」のメンバーですることとなった。実はこれこそが私たちの教会の新しい発進でもあった。
 確かに私たちの教会の賛美は演奏も選曲も、若者たちに比べて古臭いかもしれない。しかし、音楽ではない、賛美だ!「自分たちの持てる最高のものを主のみ前におささげしよう」という心で賛美をした。いつもに増して心に迫るものがあったのも確かだ。
 そんな賛美が始まると、わたしたちの感謝の心は天に届くほどに燃えた。
 ところが感謝とおどろきはこれでは終わらなかった。思い返すたびに聖霊様の働きが胸の辺りにわきあがってくるのだ。
 
 次に不思議なこととしてあげたいのは預言のことだ。選ばれる方々が何故か他教会のかたばかりである。私たちの教会に個人への預言はないのかと思ってしまった。このことについての答えは次の朝、妹と話している中で与えられた。
 「キリストの福音大分教会」そのものが対象であったのだと感じたのである。
 それは、なぜかメッセージの中でブラザー・ユン(「天国の人」著者)の息子さんであるイサク師がすごい笑いをもたらしたことである。他の方々も何故か、笑いのすばらしさについて話題にしていたこともそうだ。
 「足を伸ばす」奇跡についても詳しく証ししてくださったし(これは、いつも私たちの教会でしていることだから皆も喜んだことと思う)、神の教会として、みなが一つとなって新しいスタートをきる、「いよいよ本番だぞ」といわんばかりのミニストリーが続いていたのだ。

 きわめつけはイサク師が「中国人として、日本に謝らなければならない。日本について悪いことをしたり、言ったり思ったりする中国を赦してください」とみなの前にひざまずいたことだ。兵役拒否して投獄された今はなき父のことが脳裏に浮かんだ。
 すると、H牧師が飛び出してきて「日本も謝らなければなりません。私たちこそ赦してください」とイサク師のまえに抱きかかえるようにしてひざまずいた。わたしとN先生もたまらず前に出て、共に抱きあいながら、赦しをこい、共に抱き合ってひとつとなった。
 わたしたちと、そこに集まっている人々も共に聖霊様のお導きにより、互いに赦しあえたのである。二つのものが一つになる瞬間であった。国境を越え人の思いをはるかに越えてイエス様は私たちを赦し、愛し、十字架のもとに一つとしてくださったのだ。
 このミニストリーこそが聖霊様によるアウトリーチの実践というものであったのだろうか。アーメン!(た)
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by mitiru-takae | 2015-03-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

イエス様が驚く信仰 2015.3.22

イエス様が驚く信仰
 
 イエス様はよく「あなた方の信仰は、どこにあるのか」(ルカ8:23)、また「ああ、なんという不信仰な」(ルカ9:41)などと、弟子たちを見て嘆いていたことがありました。
 たしかに、イエス様と一緒にいたころの使徒たちは、あるかないかわからないくらいの本当に小さな信仰によって歩んでいたと思います。しかしいつもそばには助けてくださるイエス様がいてくださいました。
 ところが弟子でもユダヤ人でもない、すごい信仰の人がいました。
 
 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。<ルカ7:7>
 
 ルカによる福音書の百卒長の「おことばをください」という信仰ですが、命令系統の確立している、軍隊のよいところがあらわされたものでもありましょう。しかし、軍隊では、その上官の命令が正しかろうと、そうでなかろうと、従わなければなりません。
 イエス様のお言葉は真実です。百卒長は、イエス様を信じていました。「必ず、お言葉をいただくことさえできれば、私の愛する僕は癒されるのだ」、「癒すことができるお方はこの人以外にはいない」と、心の中で信頼していたに違いありません。
 
 わたしたちも、たとえ百卒長ほどの信仰がないとしても、目に見えない病気や、遠くにいる家族、兄弟姉妹のためには、とりなして祈りやすいのではないでしょうか。
 「祈ってください」と電話などがあったときには、喜んで祈ってさしあげたいものです。私たち自身の信仰の励みにもなります。
 祈っているとなおさら共に喜びあえるという、聖霊様による交わりが深められます。
 そして、それがいかに小さな癒しや、祈りが聞かれたという体験であっても、祈って与えられたものには、何倍もの喜びという付加価値があるのです。
 
 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。<ルカ7:9>
 
 イエス様が感心するほどの信仰を私たちも持てるでしょうか。
 小さいもののためにも、自分より強くて大きいと思える人のためでも、ただイエス様を信じて、ことごとに祈っていくとき、イエス様に驚かれるほどのとりなしの祈り手となるんだと信じます。
 
 天地がゆすぶられるような大きな奇跡も、実は、一人の小さな祈りから始まるのだろうし、イエス様へ祈ることそれ自体が、私たちの小さな信仰を支えてくれるものです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-03-27 09:30 | 満ちる | Comments(0)

小さい戒めの一つでも 2015.3.15

小さい戒めの一つでも
 
 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。<マタイによる福音書5:19>
 
 二者択一の厳しいとも思えるおことばです。
 旧約聖書を読んでいますと、エデンの園で神様からアダムとエバはたった一つの戒め「善悪の意識の木からはとって食べてはならない」というお言葉をいただきました。しかしこれはサタンにだまされ、なんなく破られてしまいました。
 そして次に神様はモーセを通して十戒という律法を石に刻んでイスラエルの人々に与えました。
 しかし、人々は神の愛に対して反逆し、不平を言い続けました。ついには出エジプトした成人男子のうちヨシュアとカレブのほかは、モーセも入れて、神に逆らったものはすべて死にカナンの地に入ることが出来なかったのです。
 カナンの地を征服していくには、神様に従えないものはついて行くことができなかったのでしょう。言い換えれば、それほど多くの戦いが待っていたということでもあり、神によらなければ勝利できない戦いでもあったと思います。
 出エジプトは、神の愛と哀れみによって成就します。しかしカナンの地に入るには、神の律法を守り行い、立ちはだかる敵から約束の地を勝ち取っていかなくてはならないのです。
 
 わたしたちにとっても同じです。人生のヨルダン川を渡りカナンの地をいただくということは、霊肉共に主に従えるものとなることであるし、律法を守りおこなえる者となることです。
 そこで、このきびしいお言葉をもう一度読み返してみますと、ひとつの愛が見えてきます。つまり、どちらも天国に入っているということです。
 ただ、「天国でどういう立場にあるか」ということのようです。たとえ大いなるものと呼ばれなかったとしても、小さいものとして天国に入れてもらえるのです。
 これは何と幸いなことでしょうか。
 
 憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう。<箴言10:12>
 
 罪ある私たちをあがない救い出してくださったイエス様は、わたしの罪のすべてを十字架の血潮によっておおってくださるおかたです。このイエス様を信じるだけで、私たちは天国に入れるのです。
 もし今日、わたしたちが小さい戒めの一つでも守り行うことができたならば、きっと天国で大いなる歓声が湧きあがることでしょう。(た)
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by mitiru-takae | 2015-03-20 19:45 | 満ちる | Comments(0)

イエス様が一番 2015.3.8

イエス様が一番
 
 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。 <ルカ6:13>

 イエス様の周りにはいつも多くの弟子や人々が共にいました。その中からイエス様の代理の使者として、十二人を選び使徒と名づけました。イエス様は福音を伝えるために使徒たちを町々へ遣わしたのです。
 イエス様の行くところでは、多くの癒しと不思議な業が、次々と起こりました。人々が病や悪霊から解放されていったのです。癒された人々の中には、癒したお方が誰だか知らなくても、直接イエス様の手によって、またお言葉によって奇跡を体験したということもありました。使徒たちはこの奇跡をことごとく見てきたのです。
 今日、わたしたちも時々びっくりするような奇跡やまた預言が語られたりと、たくさんの聖霊様による御業がなされているのを見たり聞いたりします。
 しかし、多くのミニストリーが繰り広げられ、眼を見張るような奇跡が目の前で起こったとしても、そこにイエス様がいらっしゃらなければ、私たちにとって罪からの救いと解放を伴う癒しや奇跡はおこりません。
 今朝は松岡欣也先生(イエス栄光芦北教会創設者・自称「フリーの牧師」とは父が夢見た自由なクリスチャンに似た気持ちかもしれないなあ)の【ちょっと一言】という毎日配信してくださっているメッセージの中で、「リバイバルと称して現在なされている教会での預言が、”イエスさま”を語らないなら、余言(余計な言葉)になりかねない。」という一言が書かれていました。
 確かにイエス様がいなければ、預言も時に余言どころか、暴言になりかねません。 
 
 イエス様が昇天されたあとの初代教会で執事が選ばれました。その時の使徒たちのことばです。

 わたしたちは、もっぱら祈りと御言のご用に当ることにしよう」。 <使徒6:4>

 初代教会の使徒たちのように私たちもまず、みことばと祈りに専念すること(私の心と口からイエス様を離すことがないよう)に、一生懸命になってみましょう。
 イエス様が私たちを選び、福音を伝えるために遣わすのです。十二使徒たちが、いつもイエス様と共にいたように、祈りとみことばは、私たちの心をイエス様から離すことなく、福音宣教のため立ち上がらせてくださいます。

 あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。<申命記7:6>

 使徒たちはイエス様にとって宝であったにちがいありません。私たちも同じようにイエス様の宝として選ばれたのです。私たちにとってもイエス様が宝で一番です。(た)
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by mitiru-takae | 2015-03-13 07:56 | 満ちる | Comments(0)

キリストの愛 2015.3.1

キリストの愛
 
 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。<ローマ人への手紙13:10>
 
 とうとつですが、仏教の言葉に四苦八苦や、因縁などと、わたしたちでもよく聞く言葉があります。しかし「愛」という言葉はあまり聞かないようです。
 「人間としての心の奥にあるものを掴み取り、この世での生き様を深く悟る」といった、心を己の中心に掘り下げていく静の部分としてはとても納得するものがあります。
 キリスト教はと言うと心を聖と向き合わせる外向きの動きがあるように思えます。
 自分をみつめていくと、どうしても悪いことが見えてきます。「自分が好きと思っている人はいますか」といってもなかなか手は挙がりません。もちろん「自分が好き」と思っていたとしても、手をなかなかあげられないものかもしれませんが、多くの人が、自分より他の人のほうが「できる人」だとか「頼りになる人」、「うらやましい人」と感じているのです。
 それは多分眼を向けている対象が「自分が欲望する人物像」であり、この世の成功者といわれている人々だからでありましょう。
 イエス様が心を向けて観ていた人々は違いました。
 名もない小さな幼子や婦人たち、病人であったり、障害のある人であったり、心をサタンに支配され苦しんでいた人たちなのです。
 安息日の律法にがんじがらめになっているパリサイ人たちの見ている前で、イエス様は右手のなえていた人の手をお癒しになりました。
 
 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。<ルカによる福音書6:9>
 
 有識者としては許せないイエス様の言動であったのでしょう。しかしそんなパリサイ人たちの考えていることは、イエス様にはすべてお見通しです。「またまた安息日にしてはならないことをする、しめしめこのことでイエスを責めたてよう」という具合に考えていたのでしょう。とにかく、イエス様を神冒涜(ぼうとく)罪でぎゃふんといわせたかったに違いありません。こんな時イエス様の返答はいつも「言い得て妙」です。
 
 アブラハムの「ただ信仰によって義とされた」という、神様の一方的な恵みとあわれみによる祝福の約束、そして何度も罪をくりかえす人間のためにモーセを通して与えられた「十戒」というように、旧約時代の恵みとまことをあらわす約束や律法は、イエス・キリストによって完成されています。
 創られたすべての人が一人残らず救われるために、キリストの愛はわたしたちの罪を覆い尽くします。十字架の血潮が私たちを本当の愛と義に導いてくださるのです。このお方のほかに救いはありません。(た)
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by mitiru-takae | 2015-03-06 23:44 | 満ちる | Comments(0)