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恵みとまこと 2015.2.22

恵みとまこと
 
 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。 <箴言3:3>
 
 2月16日(月)、霧の立ち込める大分自動車道をH先生ご夫妻と先生の運転する車で有明バイブルチャーチに行ってくることができました。実は私は、一週間ほど前から背中が痛くて、有明に行くことを半ばあきらめかけていたのです。しかし主はわたしの心を強め出発させてくださいました。
 有明バイブルチャーチには、牧師の牧師といわれるディック・アイバーソン師が来日してくださっているとお聞きしたので、お誘いを受けたことを心から感謝していました。
 ディック・アイバーソン師の色々な話の中で「私たちはイエス・キリストの福音を実践(あらわす)しなければ福音は伝わらない」といわれたことを少しご紹介したいと思います。
 
 「困っている人、助けを必要としている人がいれば与える、助けるということを実行(憐れみを施す)していかなければなりません。イエス様は、恵みとまこととに満ちたお方です。まことのみではありません。そこには恵みが満ち溢れていたのです。
 聖書だけを説いて、目の前の飢えた人に何も食べさせてあげることができなかったならば、イエス・キリストの福音は伝わるはずがありません。では、私たちに何ができるのでしょうか。
 わたしたちは、イエス様の恵みとまこととをいつも首に結びつけ、心の中心に碑として置くならば、飢えている人にみ言葉とパンの両方を渡すことができるのでしょう。ほんのちょっとしたやさしさが、氷のような硬い心をとかすことができるかもしれません。イエス様はご自身が「愛と義」のお方です。」
 
 私なりの解釈ではありますが、先生の言われるとおりだと思います。
 また、「しるしと不思議の上に教会成長があるのではない」ともいわれました。教会の体である私たち一人ひとりの恵みと憐れみの実践が多くの新しい魂をイエス様の元へお導きできるのでしょう。
 「愛が行動すると、恵みと憐れみとなるのです」
 
 主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。<Ⅱテモテ2:24~26>
 
 「私たちは、私たちの教会を愛しているだろうか。また、私たちの住んでいる地域を心から愛しているだろうか。」「私たちの心の中に、主のまことと慈しみが溢れているだろうか?」と問いかけられるディック・アイバーソン師からのメッセージでありました。(た)
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by mitiru-takae | 2015-02-27 09:07 | 満ちる | Comments(0)

イエス様の御前に連れて行くために 2015.2.15

イエス様の御前に連れて行くために
 
 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。<マタイによる福音書7:7、8>
 
 ルカによる福音書5:17~26に、「ある人たちが、イエス様の御前に中風の男を連れて行くために、瓦をはぎ屋根から床のまま吊り下ろしたという記事があります。
 なぜ屋根からわざわざつり下ろしたかというと、イエス様の周りにはお話を聞くため、また病を癒していただくために集まってきた多くの人々に加えて、律法学者、パリサイ人達がイエス様の周りを取り囲んでいて、イエス様のおそばに近寄ることができなかったからなのです。
 わたしたちも、イエス様の近くに行きたいと思った時、あたかもこの群集のような大きな壁とも言える問題や、苦悩で近づけないということがあるかと思います。
 イエス様は目の前にいるのに、近寄れないというようなとき、わりとあっさり進むことをやめてしまったりします。あきらめるのが早すぎるというか、あまりにも知恵や努力にかけているようにさえ見えます。
 「求めてみよう、探してみよう、たたき続けてみよう」と希望を持って踏ん張り続けてみるならば、主によって私たちは勝利を勝ち取る鍵を握ることになります。イエス様はいつでも、私たちに対して熱心です。
 
 「主の熱心がこれをされるであろう」<Ⅱ列王記19:31> 
 
 主の熱心さに応えていく為には、私たちも熱心になることが一番です。
 中風の男を屋根をはいでまで、イエス様の御前に連れて行った人たちは、とにかく「イエス様の御前に連れて行きさえすれば癒される」という望みにかけていたのでしょうか。それは99パーセント中1パーセントの希望という、小さな小さな信仰です。
 床に寝たままで起き上がれない男の親族か、また友人だったのかもしれない彼らは必死にイエス様の前に男を連れて行くために頑張ったのです。
 自分の側に利益を求めず、誰からも覚えられることがなく、それどころか、壊した屋根の弁償をしなければならないような損失をも省みず、この人たちは愛のとりなしの業をおこなったのです。
 
 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。<ルカによる福音書5:20>
 
 イエス様は世でただお一人、私たちの罪を赦すことのできるお方です。その大いなる権威を持つお方が、彼らの信仰を見てくださったというのです。イエス様は私たちをもいつも見ていてくださるでしょう。私たちが大切に思う誰かのためにとりなして求め、祈り続けていくことは、主に与えられた素晴らしい特権であるのです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-02-21 12:45 | 満ちる | Comments(0)

「わが意(こころ)なり、潔(きよ)くなれ」 2015.2.8

「わが意(こころ)なり、潔(きよ)くなれ」
 
 イエスがある町におられた時、全身重い皮膚病にかかった人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった。<ルカによる福音書5:12,13>
 
 この聖書箇所こそ、文語訳聖書で読みたいところです。「私の意志だ」とおっしゃるイエス様のお言葉がきこえてくるような、力強いお言葉です。12節の「全身~」の前に文語訳聖書では「視よ」という短い言葉が入っています。
 町々を巡り福音を伝えていたイエス様が、ある町にはいるやいなや目の前に飛び出してきて、地にひれ伏した全身を覆うほどの重い皮膚病の人に出くわしたのです。これは、この光景を見ていた弟子がびっくりするほどの出来事であり、印象に残ったことであったのでしょう。
 この人はイエス様のうわさを聞いて待っていたに違いありません。
 「私を清くすることのできるお方はこの方以外にはいない。このお方ならば、その気になればできないことはない。しかし、こんな穢れた私に眼を向けてくださるだろうか。いや、一か八かすがりついて懇願するよりほかに手はない。」
 自分の人生のすべてをかけて、御前に躍り出る勇気が、この人のどこに潜んでいたのでしょうか。あきらめていないのです。99%だめだとあきらめていたとしても、あとの1パーセントの生きたいという希望が、この人を奮い立たせたのでしょう。
  
 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう<ルカによる福音書17:6>
 
 わずかな希望であったとしても、イエス様は見逃しません。「あなたの思っているとおりこれが私の意志だ」とおっしゃってくださいます。この人が思う以上にイエス様は手を伸ばし、彼にさわり癒してくださったのです。知らん顔して通り過ぎるどころか、近くに来て、人が触ることさえできない重い皮膚病に触ってくださったのです。
 私たち一人ひとりを見逃さず、手を伸ばしてくださるイエス様を、私たちも見逃さずに御前に出て行くことが主の癒しと解放の御手の業を見ることになるのでしょう。
 主への期待や希望、確信が私に1%くらいしかなかったとしても、求め、懇願していくならば主は聞いてくださるでありましょう。
 この時、たとえ主のご意志が私の思いに沿わないものだったとしても、ひたすらイエス様を礼拝し、賛美し続け、祈り続けます。そして「私の意志だ」といわれるイエス様のお声を聞きたいと思うのです。これこそ私の心の中に残ったわずか1%だが、大きな希望です。(た)
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by mitiru-takae | 2015-02-11 17:24 | 満ちる | Comments(0)

人生が転換させられるとき 2015.2.1

人生が転換させられるとき
 
 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。<ルカ5:10~11>
 
 キリスト教会の礼拝に出席している人々は、どこかで、何かの形でイエス様に心を奪われた人たちに違いありません。そのパターンは、一人ひとり違うでしょうし、必ずしも素敵な動機があったわけではないかもしれません。しかし、確かにイエス様は、私たちを招いてくださったのです。
 今日のみ言葉にあるシモン(後のペテロ)という人は、漁師でありましたが、イエス様に出会い、その権威あるお言葉や、奇跡を見せられたうえ、こともあろうか自分が罪人であると気づかされてしまったのです。

 この時起こったことは、シモンにとってとても尋常ではない「びっくり」することだったでしょう。さすがの漁師としてのプロもどうにもならないような「収益はゼロ」という働きの結果でしたが、彼らがイエス様のお言葉に従うと、網が破れるほどの大漁となったのです。それどころか、船は仲間に助けてもらったにもかかわらず、沈み始める始末でした。
 シモンの驚くさまと心の騒ぐさまが伝わってくるようです。沈み始める船を見ると、恐れが生じます。イエス様に心を見透かされていることを感じたとき、自分が罪人であることに気付きます。
 イエス様が一人の魂を癒し解放するときには、最大の奇跡をみることになります。それはなんといっても私の心がイエス様の方向へと向き直ってしまう、大奇跡を見ることになるからです。これはまさにイエス様のお膳立てであり、ご計画にほかなりません。
 
 私たちの今までの経験、培った知識、いろいろな先人たちのアドバイスなど、何をもってしても、「ゼロ」の時がきます。主の御手が迫る時です。主の御手が働き始めると私たちは「ただイエス様に従う」こと以外の方法がありません。「ゼロ」が主の御手にかかると「大漁」になるのですね。まさに私の「非力」は「主によって働く大きな力」ということになります。
 奇跡を見せられた後の罪の悔い改めと恐れは、イエス様のお言葉によって魂は平安に満たされ、神を畏れるものへとつくり変えられていきます。シモン、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、このおびただしい魚や、網、船、つまり仕事道具と収益のすべてを捨てて、イエス様についていったのです。

 「今からあなたは人々を生け捕りにする人にされていきます。」(インターリニア参照)

 主が選び、そのご計画の中で私たちを訓練してくださり、主のために働けるものへとつくりなおしていってくださいます。人生の転換という奇跡の時をいただきイエス様について行きたいですね。ハレルヤ!(た)

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by mitiru-takae | 2015-02-07 11:37 | 満ちる | Comments(0)