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祈りは魂のエンジン 2015.1.25

祈りは魂のエンジン
 
 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。<マルコによる福音書1:35>
 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。<ルカによる福音書4:42>
 
 イエス様はしばしば寂しいところに行き、一人で祈っておられました。
 ルカによる福音書4:42では祈ったとは書かれていませんが、マルコによる福音書の並行記事を見ると祈っておられたと書かれています。イエス様にとって祈りとは天の父との深い交わりであったはずです。
 
 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。<マルコによる福音書1:11>
 
 神様はいかに人間としてこの世に使わしたひとり子なるイエス様を愛しておられたことでしょうか。
 イエス様にとっても天の父はご自身の存在そのものでありました。町々や村々に出て行くときや、サタンにとらわれている人たちの癒しと解放のため出て行くとき、神の御霊と権威が満ち溢れていました。
 
 それは、父との深い交わりである「祈り」の機動力によって外に出て行ったからです。いわばイエス様の祈りは、世界一のレーシングカーに搭載されたエンジンのようなものです。この車は、最高の油、最高のエンジン、イエス・キリストという最高の運転手を乗せた、私たちのこれまた最高の道案内人なのです。
 わたしたちがこの車に乗りさえすれば、そのまま天国に行けるのです。
 私たちを天国に導きいれてくださるイエス様の力の源泉は「天のお父さん」との交わりでした。そして十字架への道をひたすら歩いて行けたのも常に祈っていたことの証でありましょう。
 
 私たちもイエス様を真似て生きたいと思います。イエス様の似姿とはまだまだ程遠い私たちではありましょうが、日ごとの歩みの中で、私たちのありふれた日常のなかで、こつこつと祈り続けて行きたいと思うのです。
 イエス様が福音宣教のため、癒しのため、解放のために出て行く力とする「天の父との交わり」は、同じように私たちにとっても主のために働きつづけていける秘訣なのです。
 
 常にサタンに勝利していくために、そしていつも主に喜ばれるために「祈り」によってイエス様に近づき戦う力を研ぎ澄ませていただこうではないですか。(た)
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by mitiru-takae | 2015-01-28 13:41 | 満ちる | Comments(0)

「心に満つるより口は物言うなり」は真実? 2015.1.18

「心に満つるより口は物言うなり」は真実?
 
 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。<ペテロの第一の手紙1:16>
 
 1月12日(祝)に開催された「大分ブレッシング(テーマ 2015年の油注ぎ)」は、主の大いなる恵みの中で集った一人ひとりが打ち破られ、会場の中の主の霊の磁場がゆすぶり動かされたかのように一つの渦となってもえあがりました。
 この様子のほんの一部をYouTubeにアップしました。
 この動画を見れば、この場にいなかったことを後悔する人がいるのではないかと内心喜んでいます。同じ機会は二度とありません。毎日訪れる主の呼びかけを逃さないように心を聖霊様のお声にフォーカスする習慣を身に着けましょう。
 
 今年の指標聖句を実行しようと心がけるならば、主が身につけさせてくださることでしょう。心がけるという自分の行いに対する意志がないことには、何事も成功するはずがないということです。信仰も、「求めよさらば与えられん」で、私のほうが一念発起しなければ主の働きに少し待ちぼうけを食らうということにもなりかねない、そのような気がします。
 勿論、ある日突然望みもしないほどの幸運が飛び込んでくることもあるかもしれませんが、普通、自分の身に起こって来る事は、自分の思いの中にあるものがほとんどだと思います。
 
 このことは私が牧師になったことにも云えることです。たとえ口では、「もう教会は嫌だ」「やめたほうがいいんだ」「とてもじゃないがやっていけない」と言っていたとしても、心の奥底では(牧師になるということは想像もしていなかったが)、「主のため何らかの形で働きたい」と思っていたことも確かだし、「用いられたい」と願っていたことも確かなのです。
 「心に満つるより口は物言うなり」で、私の持っているものが主によって用いられ、願っているものが実現していくものなんだとだんだんわかってきます。中にあるものが外に出てくるのです。
 だからこそ、私の中の本当の私を聖めていただきたいと願います。
  
 かつてうさん臭いほどに首をかしげていた、私の父の「私は凡聖である!」と言い切った信仰が、今はうらやましいかぎりなのです。主を聖とする、その聖さによって私をも聖となれる、そのことを徹底して信じた父の信仰と同じ信仰を私も欲しいと願っています。
 必ずいただけると確信し、また、すでに主の下に届いている私の願いが、外に現れてくる日を楽しみにしています。(た)
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by mitiru-takae | 2015-01-21 22:44 | 満ちる | Comments(0)

我が魂は主をあがめる 2015.1.11

我が魂は主をあがめる

 するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。<ルカによる福音書1:46、47>
 
 いよいよ2015年が始まりました。癒しと解放の年となることを期待しています。心から主をほめたたえます。
 
 マリヤは己を卑しく小さいものとして神のお言葉を受け入れました。そして神こそ大いなるものとして魂のどん底から主をほめたたえました。
 わたしたちは、どうかすると心のうわべだけで「主を賛美します」と言いがちです。使い慣れた道具のように口から出てきます。これは少し言いすぎかもしれませんが「主の祈り」でさえもまるで念仏のようにとなえたりしかねないのです。私たちの霊そのものが「主をたたえる」ものでなければ魂だって、上っ面になるのは当たり前です。
 マリヤは自分の身に起こったことを、主をほめたたえ一気に歌っています。小さな自分に起こった大奇跡とも言うべき大きな出来事を信仰をもって受け止めています。
 
 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、<ルカによる福音書1:48>
 
 ヤコブの妻レアがその仕え女ジルパによって子供を得た時、大喜びで「娘たちは私をしあわせな者と言うでしょう」(創世記30:13)といってアセルと名づけたというところがあります。ここだけではなく、マリヤの讃歌には旧約聖書の中にある御言葉と同じような言葉がたくさん使われているようです。
 そして、餓えているもの、貧しいものを良いもので飽かせ、権力のあるものや心のおごり高ぶるものを御腕を持って追い散らし王座から引きおろすといわれます。今の現状がまるで逆転してしまうような福音がマリヤによって預言されています。
 天使ガブリエルにマリヤが「お言葉どおりこの身になりますように」と言ったことばと同じことが私たちの身にも起こるんだといっているようです。まさしく、私の魂の中に生きてくださるインマヌエル(神われらと共に)と唱えられるイエス様はこの身に成って下さった確かな私の救い主です。
 
 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました。わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。 <ルカによる福音書1:54、55>
 
 イエス様のお約束は天地が創られる前から、マリヤの時も、今も、これからも変わりません。そのお言葉は、必ずこの身になるのです。主をあがめます。ハレルヤ!(た)
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by mitiru-takae | 2015-01-14 21:17 | 満ちる | Comments(0)

新年おめでとうございます 2015.1.4

新年おめでとうございます

 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。<エペソ人への手紙1:23>

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。<コリント人への第二の手紙5:17>
 
 昨年と一昨年の指標聖句を並べてみました。私たちはいつも主の愛に充分に満たされ、新しく生まれ変わった人生を主と共に歩んでいます。私が気付こうが気付くまいが主は何時も共にいます。それは神の約束された聖霊様の証印を私のうちに押されているからです。
 この約束は私たちの命を救うどころか、私たちと私の後に続く子供たち(肉においても霊においても)をも養って下さるというイエス様の祝福と愛そのものです。
 
 あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。<創世記50:20、21>
 
 昨年最後の日曜日礼拝メッセージの中で、ヤコブの子ヨセフの兄たちに対する慰めと親切の言葉とにイエス様の愛を重ねて見てしまいました。イエス様は、私たちに関わる全てのことに関与しておられます。神の息のかかっていないものはこの世に一つもありません。
 神のなされることを可(アーメン)と受け取れるならば、私たちの過去も未来も、現在も全てのことがまるで違った意味を持つようになります。
 まさに古いものが過ぎ去ってしまうのです。それは新しい人生の価値を知ることの始まりでもあるのです。
 新しい自分を味わうためには、主の喜ばれることを私の喜びとしてみることだと思います。どのような時にも神の愛から離れることはないと知っている人は幸せです。そしてこの幸せを今年の指標聖句につないでいきたいと思うのです。
 
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって、神が
 あなたがたに求めておられることである。
 <テサロニケ第一の手紙5:16~18>
 
 イエス様がわたしたちに求めていることは「イエス様から決して離れない」ということです。何時も(時が良くても悪くても)共にいるイエス様に信頼しきって生きることです。今年も御言葉を喜んで楽しみながら実行していきたいと心から願い、主のお応えに期待しています。(た)
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by mitiru-takae | 2015-01-07 15:36 | 満ちる | Comments(0)