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手放す勇気といさぎよさ 2014.11.30

手放す勇気といさぎよさ 

 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。               <マタイによる福音書16:25>
 
 「自分の大切なものを手放す」と簡単にいっても、そうやすやすとは手放せないものだ。どうかすると、そんなに大切にしているとは思えないものでさえなかなか捨てられないものである。
 私たちが大切にしているものを手放すにはちょっとした勇気といさぎよさがいる。
 イエス様はご自分の命を私のために捨ててくださった。私はどうだろうか、「イエス様のためならば命を捨てる」と言えるのか。この言葉から逃げるか、逃げないまでもお茶を濁してしまうだろう。
 しかし、たとえ私に出来なくてもイエス様にはできるのだ。イエス様は神である。神に出来ない事はない。神は何でも出来るからである。その神に祈るという事ならば、即、私にも、誰にでも出来ることなのだ。とにかく祈りつつ立ち上がって進もう。

  どうか全能の神がその人の前であなたがたをあわれみ、もうひとりの兄弟とベニヤミンとを、返させてくださるように。もしわたしが子を失わなければならないのなら、失ってもよい」。<創世記43:14>

 全能の神にヤコブは祈った。祈りの中で固執から解放されていく。
 ヤコブには「最愛のヨセフをなくし、今またベニヤミンまで無くすかもしれない」という不安との葛藤があった。どうしてもベニヤミンをエジプトに連れて行くことは承知できなかったのだ。
 そうこうするうちに手持ちの食料はそこをついてしまう。どうしても子供たちをエジプトに行かせなくてはならないと切羽詰ってくる。私たちにも同じような事が起こり得る。だが、この状態がやってくると実は感謝なのである。
 目に見えるところは窮地ではあるが、神によって「神のみこころに従わねばならない状況までつれてこられた」ということでもあるのだ。これは、祈らずにはおれない状況が目の前に置かれているということでもある。
 もともと自分ではどうにもならない問題や、悩みの解決を祈る訳だ。ここは委ねてしまう他ない。時には自分の知恵の無さまでもが神の知恵をいただく鍵にもなる。
 解決策を自分で見つけられないほどの問題であればあるほど、どこかでおもいっきり主に委ねなくてはならぬ。

  「主がとられるならばとっても良い」といういさぎよいヤコブを真似て小さいことからやってみよう。どんな小さな問題でも主の御前に放り投げてしまうならば、私たちには思いもよらない主のお答えと平安をいただくことが出来るだろう。(た)
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by mitiru-takae | 2014-11-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

想定外の幸運 2014.11.23

想定外の幸運

 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。<コリント人への第一の手紙2:9>
 
 想定外の人生が始まる時それは私たちにとっては突然のことだ。しかしそれは神様が用意されたものであって、当然そうなるべく神様の側のご計画があり私たちのために備えられたものである。愛する私たちのために神様は「想定外の幸運」を用意しているのだ。そのための思いと行いは既に私たちの中に芽生え動き出している。
 
 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。<ピリピ人への手紙2:13>
 
 引き続き創世記を見ていくと、41章でヨセフはとんでもない大展開の時を迎えている。ポテパル(パロの侍従長)の監獄にいたヨセフが2年の時を経てなんとエジプトの王パロの宰相となるのだ。
 ヨセフが「兄さんたちの束が自分の束を拝んだ」夢、「日と月と星が私を拝んだ」夢を見たときから、いやヨセフを偏愛したヤコブが長袖の晴れ着をヨセフに着せた時から事は既にヨセフの中で始まっていたのだ。
 それは壮大な神様のご計画で、この後イスラエルの民が「星の数」のように増え広がっていくことの基になる大切なご計画でもあったのであろう。
 
 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。<コリント人への第一の手紙2:10>
 
 エジプトの王パロは「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」<創世記41:38>と家来たちに言い、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない」<創世記41:39>とヨセフに言っている。御霊の啓示があってのヨセフの知恵であり、能力であるわけだ。
 パロはオンの祭司(エジプトの偶像・太陽神の祭司)の娘を妻としてヨセフに与えたが、ヨセフは父ヤコブの神から離れる事はなかった。ますます、神の霊はヨセフの中に働き、イスラエルの民をエジプトへと導くのである。
 
 私たちが何処にいても、何をしていても、イエス様は離れず、そのご計画は。確かに私たちを人生の驚くべきターニングポイントに導いていくのである。そして私たちの人生は大展開の時を迎えるのだ。ハレルヤ!(た)
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by mitiru-takae | 2014-11-26 20:29 | 満ちる | Comments(0)

時が来るまでの忍耐 2014.11.16

時が来るまでの忍耐

 彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。<創世記40:8>
 
 ヨセフがエジプトに売られてくる前、兄さんたちや、父の前で語った夢の話しをした時のことを思いだしてみよう。ヨセフ自身もその時から「自分の見る夢は神様からの啓示である」と気付いていたのかもしれないと思うのである。
 さらに獄中でヨセフがはっきり彼らに「解くことは神による――」といったのは、夢を解く賜物をいただいているという自覚があったからなのか、そのとき神の霊によって応えた言葉であるのか、きっとどちらも正解なのだ。
 時に神様からの啓示は、瞬間的に全てのことを知らしめてくださったり、理解させて下さるものである。とにかく私たちは、神様から来る啓示、預言だけを信じるものでありたい。
 私も以前は雑誌などが手元にあるとつい星座占いなどに目をやり、我ながらなさけないなあと思いつつ苦笑する、そのようなことがよくあった。しかし今はおかげで、それらを見ることも聞くこともなくなった。私たちは神様からの預言をいただくべきである。 
 獄中「夢のときあかし」という素晴らしい神からいただいていた賜物を発揮できる時を得たヨセフであった。だが、このことによって獄から出られる道が開けるかもしれないというかすかな期待も、2年という年月の間応えられることはなかったのである。
 神様はしばしば沈黙する。「よし、ここまではうまくいった、チャンスも得た」という時、どうかするとそれ以上の進展がなくなり、パタッと進みかけたものさえも止まってしまうという時がある。急に神様がいなくなったような錯覚さえ覚える。
 私たちも多分、信じているようで、信じていない、主のなされることを待ちきれないことがしばしばなのだ。
  
 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。<テサロニケ人への第二の手紙/3:5>
 
 ヨセフがこの先必ず主の栄光を見ることが出来るように、私たちにもすでに用意されている神様からの報いの日がある。かつての日本のキリシタンのような、そんな厳しい迫害は今の日本では無いかもしれない。
 しかし日々の小さな忍耐を神とキリストの愛によって持つことができるように祈っていきたい。その忍耐は希望を生むものだからである。(た)
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by mitiru-takae | 2014-11-26 16:40 | 満ちる | Comments(0)

天に於いても地に於いても/幸運な者になろう 2014.11.9

天に於いても地に於いても

 天に帰っていった釘宮義人牧師、トミ夫人をはじめ、30人近い方々のこの世の「遺影」が、会堂に並べられている。今日は「在天者祈念礼拝」の日である。
 写真は在りし日の姿であるが、天においてはもっと若返ってはつらつとして、大きな笑い声が響き渡っていることであろう。天にての若さは、永遠に変わることのないイエス様の似姿であろうと想像する。
 この世での様々な人生で得た宝を、今満喫しているのだろうか。準備のため写真を並べていた時フッと写真と眼を合わせると、幸せの波動が伝わってくるようであった。
 何時までも私たちの心の中にあり、ともに天と地とでほめ歌をうたい主を賛美する、そんな素晴らしい日を心から感謝しよう。(た)
 

幸運な者になろう
 
 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。<創世記39:2、3>

 ヨセフが兄たちによってイシマエル人に売られ、行った先はエジプトだった。当時の王パロの廷臣(宦官とも訳している)で侍従長をしていたポテパルという人がヨセフを買い取った。ポテパルはヨセフにまかせておけば、彼の神によって自分までもが祝福に預かれることを見抜いていた。ヨセフは主にあって幸運なものだったのだ。そのなすところはみな栄えるのだ。

 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。<:詩篇/1:3>

 その幸運は、たとえポテパルの妻の虚偽の告発により牢獄につながれたとしても変わらない。それどころかその牢獄から主は新たな道をヨセフに開かれる。このようにヨセフが幸運であり続ける理由は「主が共におられる」からということである。
 ヨセフの幸運の理由を見抜き、かれに信頼を置き、その能力を最大限に引き出すというポテパルの手腕は、そのままヨセフがうける神の祝福をいただいたのである。
 わたしたちも神様に祝福されたもの<創世記12:3>として、イエス様と周りの人に愛される人になりたい。そうすると、私を愛してくれる人々は皆イエス様の祝福を受けられる訳でありこれ以上の幸運はない。
 私たちは主を賛美し、互いに愛し合い、祝福を祈りあおう。自分にこれが出来るできないはともかく、共にいてくださる主を信じて祝福を祈りあうのが幸運を掴む秘訣のようだ。(た)
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by mitiru-takae | 2014-11-12 16:42 | 満ちる | Comments(0)

聖書の真実 2014.11.2

聖書の真実

 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。<ペテロの第二の手紙1:20,21>
 
 マタイの福音書1章を初めから見ていくとイエス・キリストの系図の中に、長子でもない、また兄弟たちと共にヨセフを売ったユダの名がある。ヤコブの愛したラケルの子でもない、レアが4番目に産んだユダの名である。
 しかしユダはヤコブの預言をみると、「獅子の子」である。「つえはユダを離れず」ともかいている。ユダの子孫がダビデ、そしてイエスへと続いていくのである。
 またイエス・キリストの系図が続く中、タマル(カナン人の娘)、ラハブ(エリコでの遊女)、ルツ(モアブ人)、そして夫ウリヤを殺して得たダビデの妻など、その一人ひとりの記事の中には私たちの理想や思惑とは違う赤裸々な人間の罪とも思えることさえも書かれている。
 聖書は人間の欲を満たすためにあるものではない。創造主なる神様を知って生きるためであり、人間の罪を根底から救って下さるイエス様を知るためにある。
 聖書の中に書いている罪、私たちが読みたくもないような記事、これらを見るとき、私たちはそれを自分の罪としてとらえる事ができるならば、聖書は私にとって世界でたった一つの「救い主イエス・キリストへの道案内」となる書物である。
  
 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
 <マタイによる福音書9:12>
 
 「自分が病人である」という自覚がなければ、医者にも行かず、薬も飲まず、養生も節制もしない。健康のために日々心を配ることも病気になりたくないためだが、私たちの魂の健康のためにも、毎日の聖書は最高の心の健康食だし、病気のこと、また治療法を教えてくれるすばらしい魂の「赤本(家庭の医学)」でもある。
 私たちは、私と神の間の架け橋なる「十字架にかかって私の罪のため死んで下さったイエス様の救い」を受けることによって聖書を本当に理解することができるのであって、たとえ書いている言葉が理解できたとしても聖書の中にある神様のおこころは、聖霊様によらねば理解することが出来ない。
 初めの創造の時以来、今の時代に至るまですべての計画を立て、実行し、完成に至らしめていく創造主なる神様に心から畏れをもってほめたたえる。そして神様によるすべてのご計画に私をも入れてくださっている恵みを心から感謝するのである。(た)
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by mitiru-takae | 2014-11-05 16:43 | 満ちる | Comments(0)