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悲しみを越えて 2014.10.26

悲しみを越えて

 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。<イザヤ書61:3>
 
 人の悲しみの中でも愛するわが子を亡くすことほどつらく悲しい事はないと思う。
 色々と理由もあるだろうが、まだ幼い少年たちが兵士となりテロに加担する。この少年たち、また働き盛りの青年たちが戦争にでていくのを親たちはどんな思いをもって送り出しているのであろうか。
 人間は命をお金と引き換えにする事はできるかもしれない。だがなくなった命はお金で買い戻せない。そして悲しみはだれも買ってはくれないし売ることも出来ない。心の苦しみや病もそうだ。売ることも買うことも、身代わりになることさえできない。これを癒し、解放し、喜びにかえることが出来るお方、それがイエス様だ。
 創世記37:33以下をみると神と格闘するほどの強い信仰をいただいていたヤコブですら、愛するヨセフを亡くすということは天と地が崩れ去るほどの悲しみであった。
 自分の子供たちに「ヨセフは死んだ」と騙されるヤコブも哀れだが、彼らもまさかこれほどまでに父が悲しむとは思っていなかっただろうなと想像する。ヨセフの兄たちはヨセフを売り飛ばし父をだましたことをきっと後悔したであろう。
 神様がご自身の計画を進めていく途中で、わたしたちもこのヤコブのような場面に直面することがあるかもしれない。先を知らねば人生真っ暗、死んでしまいたいほどの苦しみ、悲しみ、恨み、ねたみなどで心は押しつぶされてしまう。そして「たまらなくなって神様に文句をいい自分の人生をサタンの支配の中に投げ打ってしまう」というようになる。
 しかし、もしその時、私たちの人生の本当の行き着くところがわかっていたとすればどうだろうか。今のトンネルの先が必ず開けて主の臨在の場所に出るとわかっていれば少々きつくても、なんとかトンネルの出口まで這ってでも進んでいくだろう。
 そしてもっと素晴らしいことに、私の人生の真の居場所がわかると主の臨在は先にもあるが、今このトンネルの暗闇の真っ只中にもあるということがわかる。私にぴったりとよりそい、ともに歩いて下さっているし、ときには私をかかえて歩いて下さっているイエス様に気付かされるからだ。
 神の選びとご計画、これを知るならば私は歩いていける。肉の死後を神の国で過ごすと言うことを知るならば今も神の国の住人として歩いていける。悲しみや苦しみを乗り越えていけるのは私の存在が100%イエス様のものと知ればこそだ。
 深い悲しみのなか、フッとイエス様のお顔を心に描いて御名を呼んでみよう。わたしの過去も今も未来も、また私が何処から来て何処に行くのかをもすべて知っているイエス様に、きっとすべてを委ねて生きていけるはず。(た)
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by mitiru-takae | 2014-10-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

ヨセフの夢 2014.10.19

ヨセフの夢

 彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。<創世記37:10、11>
 
 ヨセフの夢は父のヤコブや兄弟たちにとってとんでもないものであった。そのころヤコブ家では、牧畜のほかに耕作をしていたのだろうか、ヨセフの夢には畑の束が出てくる。ヨセフいわく「兄たちの束がまわりにきて私の束を拝んだ」というのだ。そればかりか、「日と月と11の星とがわたしを拝みました」というのだから、兄たちの怒るのもむりはない。
 そのころのヨセフは精神的にはまだまだ子供であったからであろうか、無邪気に両親までもが自分を拝むのだと言う夢の話を父の前でもしたのである。
 しかし、ヤコブはというともちろんヨセフを愛していたと言うこともあろうが、さすがにイスラエルの名をいただくほどの信仰者だ、このヨセフの言葉を心にとめた。
  
 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。<ヨハネによる福音書/13:7>
 
 「今はわからないが、先で何かがわかる時が来るのであろう。」という意味合いののヤコブの「心に留めた」と言う言葉だが、まことにイエス様がおっしゃっているとおりだ。
 私たちは聖書を読んでこの先どうなっていくのかを知っているが、このときのヤコブとヨセフの兄たちは、勿論ヨセフもだが、将来起こるであろう事を全く知らないのである。このときの兄たちのような憎しみが湧くほどのねたみをともなう事態がおこれば、誰でも先を見越して現状を理解するなどということはできないのが普通かもしれない。
 しかし、ヤコブも、最愛の妻ラケルの子として特別に父に愛されたヨセフも、普通ではなかった(笑)。ヤコブが他の子供たちには着せない特別の晴れ着をヨセフに着せたこと、またおくびもなくそれを来たヨセフ。これはいかにも「妬んで下さい、ヨセフは特別なんだ」といっているように見える。それにしても聖書はヨセフが悪いとも、ヤコブが異常だとも書いていない。神の計画は歴史として淡々と進むのであろうか。
 聖書はごまかさない。いくらイエス・キリストの系図にのるほどの人物であっても赤裸々にありのままを記している。わたしたちが、神の決めたことに対して善悪をいう事は決してできない。しかし、ただそのことを通して神のご計画を知るときが来る。
 これはただ神様のご計画の中で翻弄させられているのではなく、聖霊様を通して、今私たちは何が神様の御心であるのか、何が神様に喜ばれることであるのかを知らせていただきながら日々を歩むということである。(た)
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by mitiru-takae | 2014-10-23 09:53 | 満ちる | Comments(0)

秋の信徒一泊セミナーを迎えて/ヤコブの窮地と決意 2014.10.12

秋の信徒一泊セミナーを迎えて

 自然、時間、身の回りの環境、自分の都合のすべてを主に御奉げして、教会堂に集まってくるお一人お一人の決意が、自覚があろうとなかろうと神様のお心とご計画である。
 「いや、私は何となく・・・・・・」と言う方ももちろん、聖霊様のお働きによるものだ。
 肩をいからせて、聖書を見つめていたとしても思いの底が神様とつながっていないと、祝福のチャンスは箸にも棒にもかからない。反対に、何も考えていないように見えてもいつも主に繋がっていればチャンスはおのずと自分のところにやって来てくれる。
 最近はよく思う「神様の祝福って、わかりきっているけれど向こうからやって来る」「私の思いや、準備によって与えられるものではない」「私たちの知恵や能力によってもたらされる訳ではない」ということを。
 父が召天してから4回目を迎えるであろうか、信徒一泊セミナーは、すたれるどころかますます自己をブレイクして兄弟姉妹の霊と魂が一体となってきている。そろそろ、主の大宣教命令に従わせられる時がやってきているのであろうか。うちに溢れれば、外に出て行くのは当然であろう。
 今年の秋の一泊セミナーも聖霊様に満たされ、霊、肉共に喜びの時をいただきたいと願う。いやきっとそうなる。ハレルヤ! (た)

 
ヤコブの窮地と決意

 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。<Ⅱコリント4:7、8>
 創世記34、35章をみてみると、以前の知恵ある強いヤコブの姿はない。どちらかと言うと、シメオンとレビの虐殺行為に対して、優柔不断な姿をさえ見せている。
 しかし、ヤコブはどうしようもないこの窮地の中、自分と自分の家族、すべての共のものに対して神のご意志を伝えそれを実行する。たとえカナン人やペリジ人に追いかけられ、殺される危険があったにせよ「ベテルに行け」という神様のお言葉に従ったのだ。ここにヤコブの主に従う決意がある。
 決意するとあとは神の側の計画が即発動する。<創35:5>に「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」とある。自分の弱さを知った上で、自分のすべてを主に奉げると決意してみよう。私には出来ないかもしれない、しかし神に出来ない事はない。
 逆境の中に救いがある。弱さの中に勝利がある。死によってわたしたちは命を受ける。
 この死とは十字架上で死なれたイエス様とその時共に死んだ私の罪のことである。(た)
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by mitiru-takae | 2014-10-17 20:37 | 満ちる | Comments(0)

笑・喜・踊(ワッハッハ)/弱い時こそ強い 2014.10.5

笑・喜・踊(ワッハッハ) 

 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。<マタイによる福音書5:12>

 笑い、喜び、踊りは父くぎみやよしとの三種の神器。いや、言い換えれば神様からいただいた賜物、宝だ。
 昨年の父の召天一周年記念文集の題にした「笑・喜・踊」は、今更ながら、良い題をつけたものだと感心する。文字面を見れば見るほど「くぎみやよしと」だ!と笑ってしまう。
 今私の中にあるのは上掲のマタイによる福音書5:12のお言葉だ。献金の封筒にもこのお言葉を載せてもらうことにした。「こんなすごい祝福の言葉は無いよ」と喜びが心の奥から湧きあがってくる。「今日も喜びをいただいて、その上天に宝を積んだぞ!」「笑うだけで、喜ぶことで大きな神からの報いを受けるというのだから、笑わにゃソン、ソン」と言う具合にである。・・・笑えばまた父を思い出す。
 「もう2年も経つのか」と言いながらも、なんだかいないことが不思議にも思えてくる。年月関係なく、ずーっと一緒にいるようなのだ。反面、現実は確かに父に何もしてもらえないので、ちょっと大変なのである。と色々言いながら「釘宮義人牧師の召天二周年記念の日が来たのだ。無事に二年間過ごさせていただいた。」と感謝に満たされる。
 「イエス様、父に感謝!」そして「教会のみなさんありがとう!」(た)


弱い時こそ強い

 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。<Ⅱコリント人12:10>

 兄エサウが自分を迎えに来るのに400人ものお供を連れてやってくる。これはヤコブにとってとんでもない恐れをもたらした。その頂点に達した時、ヤコブは夜から夜明けまで、ある人(私は聖霊様だと思っている)と戦った。結果、神をも負かすほどの自我の強いヤコブの魂の支えと言うべきところが打ち砕かれた。それでも神様に食い下がっていったヤコブを見るとき、私たちの祈りもこうであるべきだと学ばされる。
 自分の弱さを知ることは、まさに偉大な神の力を認め、神を畏れることだ。真の強さと勝利はここから始まる。神である主を知ったならば新しい人生が開けてくるからだ。全ての被造物をみる眼も、感じ方も神を畏れるとすべて変わってくる。「弱い時こそ強い」このお言葉を体験できる時はわたしたちにも訪れる。果たしてこの時を、神を知り自分を知るときだと捕らえることができるであろうか、「出来る」と告白していこう。(た)

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by mitiru-takae | 2014-10-17 20:33 | 満ちる | Comments(0)