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主は希望を捨てない 2014.8.31

主は希望を捨てない

 イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。<創世記25:21>
 
 今日も朝から水害,地震、人質・・・のニュースだ。
 「一体、人間も自然もどうなっているのだろう」と思う時、地球の平和、宇宙の平和と完成を祈った内村鑑三先生のように私も願わずにはいられない。
 先日、尼崎での環・関西リバイバルミッションに参加し、神戸を回って大分に帰ってきた。町々を見ながらあの阪神大震災を思い起こす。よくもここまで復興できたものだと、想像すらできないほどのご苦労のあったことなどを思う。今なお大変な不安を抱えている人たちもいるのであろうし、東日本大震災での津波の大被害、また福島の原発事故では今まで生きていた土地と空気までが取り去られていったのだ。
 しかし、人々の心は葦のように強く、ひまわりのように光に顔を向けることを忘れていない。涙の分だけ祈りがあり、苦しみの分に代えて希望があったからであろうか。
 神様の創られた人間はなんて強いのだろうか、そして反面なんて弱いのだろうかと、すごく矛盾にとらわれてしまう。
 先日いわき市のM先生ご夫妻がうちの教会を訪ねてくださった。生前父が「雲に命じる」ということを話していたのを、あの原発事故のとき思い出したそうだ。
 空を見上げると目前に放射能の詰まっているであろうあやしげな黒雲が、今にもここに来て雨を降らす、そのような事態であったそうだ。その命がけの状況の中でM先生は雲に命じたそうだ。山を動かす信仰の祈りだ。
 「雲よ立ち去れ!」「雲よ、太平洋の向こうまで飛んでいけ!」、こんな感じだったに違いない。きわどいところでの必死の祈りは聞かれ、突風が吹いて雲は遠くへ吹き飛ばされていったそうだ。
 私はこの話を聞いて思わず手を打った。「主よ、やはり信じて祈る!これしかないわ!」
 父の「雲に命じる」と言うのはとても面白い話であった。実は父は「雲を消す」名人であり、母は「雲を増やす」名人(ちょっと言い過ぎかも)であって、これで雲の量のつじつまはあっていたのであろうかとちょっと笑ってしまう。
 
 今日のみ言葉はイサクの祈りである。神の約束によれば生まれるはずの子供が授からない。イサクには父から聞いた神との契約を神が履行しないはずは無いと、確かにわかってはいたはずだ。しかし、現実はそうでなく、リベカには20年もの間こどもが出来なかったのである。
 しかし神は忘れてはいない。イサクが祈り願うと、直ちに神は祈りを聞いてくださったのだ。神は私たちの祈りを、今か今かと待っていて下さるに違いない。
 主ご自身が私たちに抱いて下さっている希望がある限り、主の側にいつも私たちの願いを聞き届ける用意があるということでもあろう。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-08-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

祝福の継承 2014.8.24

祝福の継承
 
 彼は言った、「主人アブラハムの神、主よ、どうか、きょう、わたしにしあわせを授け、主人アブラハムに恵みを施してください。<創世記24:12>
 
 主人アブラハムに信頼されているしもべは、<創15:2>に出てくるエリエゼルだ。彼はアブラハムの相続人と予定されていたほどの人物であったようだ。イサクの嫁選びはこのしもべに託された。
 人間的にもアブラハムのすべての財産を任されるほどであるから今で言う「出来る男」であったのだろうか。
 しかし何より素晴らしいのはこの祈りだと思う。「・・・私を省みて主人アブラハムと共に、神の慈しみを示していただけるように(私訳)」。そして祈りは実現し、しもべはナホルの子ベトエルの娘リベカに出会い彼女をイサクのもとにつれて帰ることができた。
 
 アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。<創世記24:1>
  
 アブラハムは老人となったというように過去形で書かれている。確かに年老いてしまっていたのであろう。といっても、アブラハムはこの先35年も生きてもう一人の妻をめとり6人の息子を得ている(創25:1)から、なんとも元気だ!
 しかし年老いたアブラハムには人生の総括ともいえる仕事が残っていた。しもべに託したイサクの嫁選びである。
 何度も言うがこのような大事なことを頼まれたのだからこのしもべは凄い人物である。また任せることの出来るアブラハムも素晴らしい。互いに完全に信仰による神を通しての信頼関係があって、しもべは、祝福をもたらしてくださるアブラハムの神へ祈らずにはいられなかったのだろう。
  
 彼らはリベカを呼んで言った、「あなたはこの人と一緒に行きますか」。彼女は言った、「行きます」。<創世記24:58>
 
 アブラハムの信仰、次いでしもべの信仰。最後にイサクのもとへ行くことをきっぱりと決断したリベカの信仰。
 「私は行く(エレフ)」という短い言葉がこの節の最後にある。そして、神の祝福はイサクとリベカへと続いていくのである。
 
 今はわたしたちのもとにある同じ神の祝福が、イエス・キリストを通してさらに信じるものへと続いていく。聖書は広大な時空を越えて迫ってくる神からのプレゼントだ。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-08-27 17:41 | 満ちる | Comments(0)

主の山に備えあり 2014.8.17

主の山に備えあり
 
 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。<創世記22:6~7【新共同訳】>

 1945年8月6日に広島、9日に長崎に対して原子爆弾が投下され、そして敗戦へと時は移っていった。
 わたしは、たまたま長崎原爆記念日の9日に読んだ「この子を残して」【永井隆著】の中でひとつの箇所に釘付けになった。
 「ああ、第二次世界大戦の最後の日、長崎浦上の聖地に燃やされた大いなる燔祭よ!
     燔祭の炎のなかにうたいつつ
      白百合少女燃えにけるかも」

 少女たちは賛美歌を歌いながら生きたまま燃えていったというのだ。
 永井博士は原子爆弾は決して天罰ではなく、何か深いもくろみを持つ御摂理のあらわれにちがいないといっている。ここに永井博士の信仰を見る。はたしてわたしはそう受け取ることが出来るのだろうかと思ってしまう。
 そして「永井博士のような、また冒頭にあげたみことばでのアブラハムの究極の場における信仰、神と父との深い関係を知るイサクの信仰を見習わせて下さい」と祈るしかない。
 イサクは父に「言おうか、言うまいか」とためらいながら「燔祭の小羊はどこにあるのですか」と聞いた。少し仰天しながらもアブラハムは「主が備えて下さる」と言い切ったのだ。
 この言葉でイサクは全てを理解したに違いない。そしてアブラハムは捧げる場所に着くとイサクを縛り、ナイフを振り上げたのである。もちろん二人は同意の上だろう。
 アブラハムの時代でも、レビ記に書いてあるような手法で燔祭をささげたのだろうか、イサクに対してもそうするつもりであったのだろうか、と思うと衝撃を受ける。
 
 この信仰を見習おうとするのは至難の業だ。一口で「こんな信仰」というが、徹底した神への従順、服従は信頼というものの度を超えている。「私たちはこれを真似できるのか」そう思いつつ神に目を上げたとき、私は7節にあるアブラハムの告白のことばがこのあと成就したのだということを知って驚いた。
 自分の小ささ、愚かさを知ることも大切だが、それ以上にイエス様のお言葉を告白すること、日々、信仰による告白をすることだ。アブラハムのように神からの告白をいただこう。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-08-18 00:00 | 満ちる | Comments(0)

イサクとイシマエル 2014.8.10

イサクとイシマエル
 
 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。<創世記21:6>
 【新共同訳】サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」
 
 ここのところでは、私は新共同訳が気に入っている。イサクと言う名の意味は笑いだ。「神はわたしにイサクをお与えになった」ということになる。また「笑い(イサク)を創ってくださった」とも訳せる。
 他にも語呂合わせのところがある。
 
 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。<創世記21:17>
 
 神が聞く(イシマエル)と言う言葉が2度も出ている。エルは「神」で、イシマは「聞く」だ。奴隷の子であろうと、神様はイシマエルの声を聞いてくださった。同じように神様は今もわたしの泣き叫ぶ声を聞き、語りかけてくださる。
 イサクとイシマエルの名の聖書箇所を並べると、「神様はわたしの泣き叫ぶ声を聞いてくださり、笑いを作って下さった」ということになる。なんと素晴らしい、実に素晴らしい。
 
 この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。
 神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。<創世記21:11,12>
 
 神様は聞いてくださるだけではない。アブラハムの心配でいっぱいになった心の中まで見ておられる。そして、迷いと苦悩から解き放って下さるのだ。神様のご計画の一端が、揺るぐ事はないのだ。一筋の道を示して下さり、また、その道にたどり着くまでの具体的な指示をも出してくれるのである。
 その指示が、案外従いたくない人からだったり、自分が優位にある側だと思っていたりする思いもよらない者に従えと言う場合もあるのである。
 だとしても、とにかく「心配するな、(神様によって)なるように成る」のである。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-08-11 00:00 | 満ちる | Comments(0)

ソドムとゴモラ 2014.8.3

ソドムとゴモラ 
 
 彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。
 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。<創世記19:16、17>
 
 ソドムとゴモラの話しでは、「ロトの妻が後ろをかえりみたので塩の柱となった」というくだりが、クリスチャンならば知らない人はいないといってもいいほどの聖書の箇所だ。
 たしかに死海の南側を通った時、まるでロトの妻の姿のような大きな岩塩の柱がいくつもあった。この地域ならではの様相である。
 この町は、アブラハムのとりなしにより、10人でも正しい人がいれば、滅ぼされなかったはずであった。しかし、10人どころか、ロトの婿たちでさえ「冗談だろ」と言ってとりあわなかったほど、正しい人はいなかった。ただ、ロトと、その妻、二人の娘たちの4人だけが逃れた。そしてそのうちの一人、ロトの妻は塩の柱となったのである。
 主はロトを哀れみ、二人のみ使いによって大急ぎでみなの手を取り(強く握って)町の外に連れ出した。ロトのぐずぐずした態度は、なんだったのだろうか。ソドムの町が今にも火と硫黄で焼き尽くされようとしているにもかかわらず、ロトには事の重大さがよくわかっていなかったのだろうか。
 それとロトには主が見えていなかったのであろうと思われる。16節をみると主と二人のみ使いが出てくる。実際主はいつも共にいてくださっているのだが、ロトには見えてなかったようだ。先にソドムに着いた御使いのあと、アブラハムのとりなしを聞いていた主が(創世記18:22)追いかけて来たに違いない(歩いて追いかけたとは思えないが・・・笑・・・主は確かにソドムの町を滅ぼすために来た)。
 
 こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。<創世記19:29>
 
 信仰の父、アブラハムのとりなしはすごい。確かに主はロトをあわれんだが、これは主とアブラハムの強い信頼関係、契約を結び合った仲の神と人との強い結びつきによりとりなされたものだ。こんなにも近いイエス様との関係を私たちも持ちたいものだと切に願うし、既に得たりと信じることこそが、実際にイエス様を身近に感じることの出来る信仰の極意だ。理屈で「主は共にいます」と魂に言い含めるよりは、私たちの感情をくすぐってくれる聖霊様による働きを求め続ける。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-08-04 00:00 | 満ちる | Comments(0)