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神への信頼 2014.7.27

神への信頼 
 
 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。<ローマ人への手紙4:17,18>

 S姉妹が生前よく言っていた大好きなみことばのひとつが、この「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」というおことばであった。
 姉妹は、貯金も無く、ご主人は何かで(おぼえていないのだけれど)落ち込んでいて、どうしようもない時だったとか、ご主人を励ます意味で信仰の素晴らしさを知ってほしいと、「無から有を呼び出すことの出来るお方」を信じ、「自分の家を建てるビジョンを実現に至らせて下さい」と祈ったそうだ。
 まず、ご主人と一緒に歩き回り、土地探しから始めたと言っておられた。ビジョンを脳裏に刻み付けていったのだ。姉妹は天に帰ってしまったが、地上には姉妹の建てた家が、海の見える小高い丘に今もでんと座っている。
 S姉妹の信仰とは、周りの状況の悪さや、色々な不安を抱えながらも、なお、アブラハムのように、ただ、神様を信じたということなのだ。姉妹はどの様にして「お金も無いのに家を建てる」という望みを信じぬくことが出来たのだろうか。これこそ、神への信頼に他ならない。
 自分を見れば、信じられる信仰なんて毛ほどもないように見える。そのような状態でこの望みが現実になると言う信仰は、つまり自分の信仰ではなく、イエス様が私のうちに持たせて下さるイエス様ご自身の信仰だったというわけだ。 
 
  さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。<ヘブル人への手紙11:1>
 
 望み得ないことも、信仰によって確信する。まだ何も見えていないところに、神の約束を見ることが出来る。
 イエス様は、私たちの日常の中にきてくださる。何も私が特別良いことをしたからでもなく、賢いからでもなく、普通に私たちの前に来てくださる。ごく普通にいつも私と共にいて下さるお方なのだ。アブラハムは目を上げ、遠くに顕われた三人の人たちのもとへ走っていくうちに、主を認め身をかがめて「わが主よ」といった。そして、主にとどまってもらおうと、急いで、もてなしの支度をした。
 テレビンの木の下で、親しく食事をして下さる主はアブラハムの日常の中に留まって下さる。それは主が私のうちにもとどまってくださり、共にいて下さるということだ。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-07-31 05:00 | 満ちる | Comments(0)

主が定める名 2014.7.20

主が定める名
 
 このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められ
た」のである。
 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。
 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、
アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良
い知らせを、予告したのである。<ガラテヤ人への手紙3:6~8>
 
 アブラハムに顕われた主のおことばは「あなたの名は祝福となれ」だ。
 神様はアブラハムと契約を結んだ。それは神様が、「今の私たちが信仰によっ
て義とされるため」に、アブラハムを祝福の基としてくださったのだというの
だからすごい。それは、異邦人である私たちへの大いなる祝福である。おかげ
で今はアブラハムの相続人とされている。
 アダムからの系図をアブラハムまでたどってきたが、なんだか旧約の世界が
見えてくるようだ。天地創造からの素晴らしい言葉がモーセを通してパノラマ
のように私たちに啓示される。あらためて創世記ってなんて素晴らしいんだろ
うと感嘆せずにはいられない。
 みことばを研究し尽くした聖書学者でなくても、神学的にはとてつもなく未
熟なものであったとしても、今の時代わたしたちは聖霊様によって神様からの
啓示を直接いただくことができる。昔の預言者や、祭司、王様ではないが、今
は全ての人に聖霊様は語って下さるからだ。
 
 アブラムは妻サライの言うことを承知してサライの仕え女ハガルによって子
孫を得ようとした。しかしこれは神様のみ心ではない。しばし神様はアブラム
の前に沈黙する。
 祝福の基としての契約を結びながらも自分の策を通そうとするアブラムの前
に、再び主は顕われてくださる。そして動かすことの出来ない神様との契約を
思い起こさせる。
 まず、第一声は「私は全能の神」という宣言だ。そして、私の前に歩み(私
の顔の前に歩き回り)私の前に全かれと言われる。
 今から神様との契約は発効される、進みだすのだ。新しい名によってここか
ら歩め、歩き始めよ、私と共に歩き回るのだといわれる。
 アブラムはアブラハムに、サライもサラと二人とも今から始まる新しい歩み
にふさわしい多くの国民の父、また母(これは多くの異邦人の父、母との意も
あるようで、びっくりしている)との名をいただくのである。この二人の名に
は、ハーラフという「歩き回る」の意味があるヘブル語の頭文字が入ることに
よって変えられているようだ。
 
 わたしたちも、信仰によって(ただイエス様を信じるだけで)、あなたにわた
しは罪を認めない、あなたを義と認めると言って下さる主に人生の全てをまか
せてみることを宣言しよう。そうすると魂の中にわたしの新しい名が生まれて
いることに気付くだろう。主と共に歩き回るという名である。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-07-31 02:01 | 満ちる | Comments(0)

祝福の秘密 2014.7.13

祝福の秘密

 

 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。<創世記12:2>

 【そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる(新改訳)】

 

 全ての民族の祝福の基となるアブラムへの召命の箇所です。

 ノアの子セムの子孫として、アブラム(後にアブラハム)の父テラの系図に引き継がれ、ここからアブラハムの歴史が始まります。マタイによる福音書1章1節からの系図はこのアブラハムから始まります。そしてこの系図はイエス・キリストのものです。

 イエスという名は、ヘブル語の「イェシュア」(ヨシュア)からギリシャ語で「主は救い」という意味です。キリストとは「油注がれたもの」の意から、ヘブル語「メシヤ」に相当する「救い主」と言う意味です。

 イエス・キリストの系図は救いに至る祝福の系図とも言っていいでしょう。そのもとになる神様からの祝福の約束をいただいたのがアブラハムです。

 新改訳を見てわたしは嬉しくなりました。「あなたの名は祝福となる」とあるからです。最近はノアの箱舟以来サタンのこと666のことなど、あまり触れたく無いことかもしれないが、知っておかねばならないこととして反キリスト、偽キリストのことを今の世界情勢などから世の終わりが近いと危機感をもってお話ししています。

 しかし、わたしはこの「あなたの名は祝福となる」というお言葉に触れて何だかホッとしました。昔の武将なら、戦がひと段落し、鎧を脱いでホッと一息、そんな感じです。

 「祝福」ということばは神様からいただく酸素のようです。私の周りを囲む大気のようです。フワフワとやわらかくやさしい感触であるのに、サタンに対しては鉄より強い何ものも通すことの出来ない頑丈なバリアでもあるのです。

 イエス様の名は「救い主」アブラハム(多くの国民の父の意)の名は祝福に満たされた「祝福」そのものでした。私たちはかつては異邦人でありましたが、今はキリストと共同の相続人として、アブラハムの名を受け継ぐものとされました。つまり私の名もキリスト・イエスにあって「祝福」とされるのです。

 

 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。<ガラテヤ人への手紙3:29>

 

 大いなる祝福の秘密、それは「わたしはイエス・キリストのものです」という名をいただくということです。もし、キリストのものであるなら、あなたは新しく作られたものであり、もはや奴隷ではなく、アブラハムの子孫とされたということです。私たちの名もアブラハムのように「祝福」となるのです。【釘宮孝枝】

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by mitiru-takae | 2014-07-16 17:34 | 満ちる | Comments(0)

言葉と思い 2014.7.6

言葉と思い
 
 わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。<詩篇19:14>
 
 言葉は私たちの思いを支配し、わたしという人格をつくり上げていきます。乳幼児が幼児となり、かたことの言葉を覚えてくるころには併せて自我も芽生えてきます。
 意識の中に言葉が生まれてくると自分の考えることがはっきりと自覚できるようにもなります。他の人に自分の思いを告げたり人の考えていることが理解できたり他の人と心を合わせて何かをする等、言葉は私たちが生きていくうえでとても大切なものです。
 聖書の中に「バベルの塔」という話しがあります。教会学校で子どもたちが喜んで聞いてくれる箇所でもあります。この塔をつくったときの人々は同じ言葉、同じ発音であったと書いています。
 
 全地は同じ発音、同じ言葉であった。<創世記11:1>
 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。<創世記11:5、6>
 
 アララテ山のノアの箱舟を出てから人々は、東へ東へと移動してきました。そしてとても良い平野(シナルの地)を見つけ住みつきました。そこで、彼らはレンガを焼き、しっくいのかわりにアスファルトを用いるなど素晴らしい技術を身につけ高い高い塔を作るに至りました。
 神様を侮り、自分たちが神に取って代わるんだと思わせるほどの傲慢やおろかさの象徴でもあるこの高い塔を想像すると、今の世界も政治、経済、宗教などの分野においてこの時の人々がしてきたことと余り変わらないことをしているような気がします。私たち人間は幾度と無く神様に助けられ、また裏切り、同じ罪を繰り返して今に至っているのです。
  
 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。<創世記11:9>
 
 このときから人々は違う言葉、発音によって一つの民族としてわかれていったのです。今の私たちも、国、民族によって言葉、生活習慣、環境が違っています。しかしイエス様によって救われたクリスチャンは、魂の中に同じ霊、すなわちイエス・キリストの霊を持ち、聖霊様による一致(ハーモニー)によって言葉以上のつながりを持つことが出来ています。私たちの心の中の思い、また口から出てくる言葉が聖霊様によって聖められ、神の国の同じ発音、同じ言葉を語る人とされているのです。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-07-09 23:00 | 満ちる | Comments(0)