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信じて祈る 2014.5.25

信じて祈る
 
   もうだめだという時に 悪魔はすぐつけこむ
   信じぬかば勝利をえん いのりぬけいのりぬけ
   勝ちをえよ 勝ちをえよ 主を信じて勝ちをえよ
   ただ主を信じいさましく 疑わで勝ちをえよ
           「エリコの城をかこみ」聖歌706より
 
 「目の前に立ちはだかる壁に何度挑戦してみてもぶちあたるだけで、一向に動かない。前に進みたいのに進めない。乗り越えようにも壁は高すぎる。もうだめだ、とちょっとでも心がくじけるとサタン(悪魔)はすぐつけこんでくる。目を覚ませ、祈るのだ、私たちの勝利は信仰によって得られる、信じぬくんだ。」という勝利の歌だ。祈りぬけ、祈りぬけと言う歌詞もとても好きだ。
 信じるってどうすればよいのか、祈ると本当に勝てるのかと、足踏みしていると、勝利はサタンにかっさらわれてしまうのだ。こんな疑いは全て放り投げて、ただ賛美し祈る。とにかく祈り求めさえすれば、後のものはついてくる。祈りぬけ祈りぬけだ。
 といっても気持ちが沈んでいる時は何をしてもうまくいかない。まるで私の心の底には気というものがかけらもないと思えるほどに、気力というものが湧いてこない。しかし、神様は約束してくださる。どんなときでも、何が出来なくても、ただ信じて求めよと。
 
 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。<マルコによる福音書9:23>
 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。<マタイによる福音書7:7>
 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。<ヘブル人への手紙11:1>

 
 私が望んでいることが神に届いていると確信すること、目の前に聞かれた祈りの答えがまだ見えていないとしても今ここに確かにあると認めること、これ自体が祈って与えられる聖霊様の回答に違いない。また「わたしはこれを望んでいるのです、神様。」と自分の望んでいることを知ることも必要だ。
 人は信じろと簡単に言われてもなかなか信じられるものではない。
 信じているものに対しては、信じようなんてあえて思わないが、信じられないものを信じようと思うと、思えば思うほど信じるのはむずかしくなる。しかし、たとえわたしたちが信じられなくても、「祈れ、求めよ」といわれるイエス様に素直に従って祈りを始めてみよう。不思議なことに祈りつづけていくと、だんだん信仰が湧いてくる。
 壁にぶち当たり先に進めないときはいつでも「イエス様」と祈り始めよう。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-05-28 14:22 | 満ちる | Comments(0)

選択と決断 2014.5.18

選択と決断
 
 「人間が生きるためには嫌なことでもしなければならないというのは迷信だ。」と、人間誕生と言う短い文章のなかで父は言った。今までそう確信して生きてきたからである。
 この文章は父が人間くさい脱仙人の生活を始めようと決心した時に書いたものである。この時の父は自分の生き方を今までとは違い、この世と無縁の仙人ではない、信仰者として、人間として自分の手でお金を稼ぎ、妻子を養って生きることだと思いを変えられ、企業人として生きる生き方に転換した、新しい信仰の形の始まりでもあった。
 このように、自分の生き方を左右するような、決断を迫られるような出来事を誰もが何度か体験するように、私たちにも、時に選択と決断が目の前にやって来る。このときの父にしてみても、ニッチモサッチモいかない状況の中で(時間もお金も猶予がないという切羽詰った状況)ただ、主を信じ進むより他に生きる選択肢がなかったのだ。
 この状況が、自分に対する神様の選びとご計画であるとはなかなか気付かない。しかし、このような切羽詰った時こそ祝福を受け取るチャンスだ。神様は、常に私の前に祝福とのろいを置く。わたしが祝福を受け取るチャンスであるが、のろいを受け取るチャンスでもあるのだ。どちらを受け取るかは、受け取るその人の選択である。
 
 しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。<サムエル記上 1:15>
 
 ハンナが、神様の前に赤裸々な自分の心の中を注ぎ出して祈った時、その祈りが聞かれた。ハンナは、大きな選択をした。「どうしても子供がほしい。そのことを今ある自分のまま、神の前に出て、心の中の全てをさらけ出して祈ろう。しかし、いただいた子供は神にお返しする。」というものだ。
 父である神は私の思いの中の悪い枝や腐った枝を、ひとつひとつ切っては炉に投げ込み、大きな実がみのるように剪定してくださるのである。結果わたしは悪い思い、必要のない思いを淘汰され、祈りの中で神様の祝福を受け取るものとされてしまうのだ。
  
 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである<ヨハネによる福音書15:2>
 
 主に大きな実をいただく! 量も質も最高の物をいただく! 実をもって主の祝福を証しする! 私も御霊によって主に最高の賛美と祈りをささげる! 主の前に喜ばれる心と思いを持って、最高の礼拝をささげる!
 わたしたちの主はこれらを実現してくださる。私たちの選択と決断が主に喜ばれるように祈りつつ。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-05-26 11:53 | 満ちる | Comments(0)

タンバリンと踊りで 2014.5.11

タンバリンと踊りで
 
 そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた。
 そこでミリアムは彼らに和して歌った、「主にむかって歌え、彼は輝かしくも勝ちを得られた、彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」。<出エジプト記15章20、21節>
 
 
 5月GWの中、4、5日は父が召天して後、三回目の「信徒一泊セミナー」であった。思いっきり賛美をしたいというのもあって、私の心の中では早くから「賛美について」をテーマにしたいと決めていた。
 賛美の中で私たちは神の国と直結する。主の臨在が私たちの自由な賛美を調和させてくださる。そこに、歌、異言、霊歌、笑い、踊り、と、様々な聖霊様によるお導きがある。
 誰か一人が特別なのではない。ミリアムが皆に和して歌ったとあるように、賛美の中には神の国のハーモニーが満ちあふれている。皆こぞって主を賛美するのだ。タンバリンを打ち鳴らし、踊るのである。これは主へのささげものであり、感謝と勝利の祈りでもある。
  
 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる、あなたは聖なるおかたです。<詩篇22篇3節>
 
 ダビデが主の箱の前で力の限り喜び踊った時、そこに臨在する主のお姿が、そして主の尊厳、力、満ち充ちる主の栄光が見えていたに違いない。信じるものに対して絶対的な愛を持って応えてくださる神、この神を恐いほどに畏れ、また、喜んだことであろう。
 
 わたしはイスラエルの人々をエジプトから導き出した日から今日まで、家に住まわず、天幕をすまいとして歩んできた。<サムエル記下7章6節>
 
 私たちの賛美を住まいとしてくださる主に感謝しよう。白檀や杉で作った立派な神殿は建てられないかもしれない。しかし、主はとらわれていたところから私たちを救い出してくださったその日から、私の魂を天幕として住んでいてくださったのだ。
 主が共にいてくださる、私と住まいを共にしてくださると言うことほど安心なことがあろうか。ダビデに対しても私たちに対しても、常に勝利と平安を約束してくださる神の守りがどんなセキュリティ会社よりも安全だと思うのである。この世のお金はいらない、いるのは信仰という切符のみだ。「いいなあ!」とちょっと嬉しくなる。
 さあ、主の御座に近づこう。もっと、もっと近くに行こう。
 主の御前で、おもいっきり賛美しよう。
 ダビデの妻ミカルではないが、人がどんなにさげすもうと、私たちの神様はとてつもなく喜んでくださるはずだ。ダビデのように、ミリアムのようにタンバリンと踊りで主をほめたたえよう。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-05-21 01:03 | 満ちる | Comments(0)

信仰とは(7)希望を抱いて生きる 2014.5.4

信仰とは
 
 7)希望を抱いて生きる
 
 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった<ヨハネの黙示録21章1節>
 
 まったく新しい天と地をわたしたちも見ることが出来るのか。
 今の天と地はなくなるのだ。海もなくなるということは、その中にいた死人ももういないのだ。いのちの書に名を書かれたものたちだけが残る。
 この新しい世界に生きることの出来る私たち自身に希望を持ちたい。他の誰でもない、私自身が主によって新しくされるからだ。今の肉の世界にオサラバするのである、なんということだろう。このことを信じられる人は幸いだ。イエス様は見ずして信じられるものは幸いだと言われた。信じられないもの、見えないものだからこそ信じるのが信仰だ、アブラハムに倣おう。
 
 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである<ローマ人への手紙4章18節>
 
 この肉を離れて自由に生きることの出来る世界は、小さいころからの私の夢である。肉体をかなぐりすてて自由に飛びまわれる姿を幾度となく想像したものだ。
 早くそうなりたい、完全の自由を切望する。そういう意味では『自由なクリスチャン』になれた父にちょっと嫉妬する(笑)。生前父が言っていた「ふすまを開けて隣の部屋に行くように死ぬ」なんてことが本当に起こったのだから。
 この父を見て私は死に対して「ふすまを開けて隣の部屋に・・・」という希望をいただいた。この希望を死ぬまで持ち続けたいと思う。「たといそうでなくても」でもいい。主がついていてくだされば、見えるところはどうでもいい。しかし、希望はもちつづける、父のように死を迎えたいと思うからだ。
 生きている今でさえ、わたしたちの本当の命はイエス様の懐に隠されているのだから、実は生きていようが、死んでいようが同じことだ。私の魂のうちに、新しい天と地であるイエス様とまったく生まれ変わった私とが同居しているからである。一つといってもよい。それこそ、「もはや我生くるにあらずキリスト我がうちにありて生くるなり」というお言葉どおりなのである。
 わたしたちは、このように生きることに対しても、死ぬことにたいしても、主によって希望をいただいている。信じられないからこそイエス様ご自身の信仰に頼り、希望をいだかせていただいている。実際私の中にある信仰の確信とは、イエス様が私に持ってくださっている信仰と希望そのものなのである。(「信仰とは」終り)【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-05-08 20:13 | 満ちる | Comments(0)