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信仰とは(6)主の兵士として生きる 2014.4.27

信仰とは
 
 6)主の兵士として生きる
 
 キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。 <テモテへの第二の手紙2:3>
 
 先週はイースターだった。私たちを主の兵士とするための贖いの十字架、復活、昇天、聖霊降臨の中での主が死と黄泉に勝利した日だ。私たちも罪から解放され主と共に生まれ変わった勝利の日だ。
 そこで御言葉に従い「さあ、出て行ってサタンと戦おう」というと、「もうそんなことはいいよ」、「平和がいいから」、「揉め事や苦労はもう勘弁して」などと、多分敬遠したいであろう。だがこの世で生きる限り、私たちは日々の戦いに知らん顔は出来ないのだ。実際サタンの思わぬ誘惑や攻撃と戦うことになる。しかし私たちは一人では弱い、思いもよらぬところで負けてしまっていたりする。ではどうすれば良いのだろう。
 まず十字架の血潮によって贖われていることを自覚しよう。贖いは主の兵士となるための免許のようなものだ。この免許をいただいて初めて聖霊による力を発揮できる。信じるものとして、イエス・キリストの名によって戦えるし、イエス様と同じことが、いや、それ以上のことができるとイエス様は言う。
 
 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。<ヨハネによる福音書14:12>
 
 わたしたちにとっての日々の戦いは、使徒たちそして多くの殉教者に比べれば、それはそれはごく小さなものかもしれない。しかし、個人単位でこの小さな戦いを勝利していくのは、地球規模いや宇宙規模の平和に通じるものがある。
 そんなに、世界の情勢は簡単に変わるものではないだろう。知れば知るほど大きな問題にぶつかるのであろう。が、一人ひとりの魂が救われなくては、多くの民族どうしや、宗教の違いによる紛争などの解決への道はないのだとさえ思う。
 思えば、出て行って福音を伝えること、これ自体私たちにとっては戦いかもしれない。私の心の奥にある不信仰との戦いだ。大分弁で「よだきい」という己の心との戦いでもある。兵士は常に上官の命令に従う。わたしたちの最高司令官はイエス様であるから、その命令は絶対のはずなのだが、これが聞けない。つまり最高司令官を馬鹿にしているのだし、本当の力を知らないからだ、畏れがないのだ。これでは、この世との戦いは出来ない。
 私の戦いを主と共に戦い抜こう、何があっても、たとえ逃げたい時があっても、主のもとに帰り、お言葉を聞こう。主が戦う方法と必要な力を与えてくださる。それを信じて進むのが、最高司令官のよき部下だ。主のよき兵卒になろう!【釘宮孝枝】 
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by mitiru-takae | 2014-04-30 23:41 | 満ちる | Comments(0)

イースターうさぎ 2014.4.20

   イースターおめでとうございます

イースターうさぎ
 
 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。<ヨハネによる福音書20章14 ~15節>

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 「イースターエッグはイースターうさぎが生んだ卵」という話しをきいたことがあるでしょうか。「えっ?」と、ちょっと驚きますね。
 私も詳しく知っているわけではありませんが、こういう話しがあります。子供たちはイースターの日、あちこちにかくされたイースターエッグをゲームのように楽しんで探し回ります。あるイースターの日、イースターエッグを見つけた子供たちはその不思議な卵に目を奪われていました。その時一匹のウサギが飛び出してきたのです。子供たちの目にはイースターエッグはまるでそのうさぎが生んだように見えて驚いたのです。
 このうさぎは今ではイースターのシンボルとなっています。

 大人にこのような驚きはありません。常識では考えられないことだからです。私たちの日常では考えられない出来事、それは2000年前も同じであったと思います。マグダラのマリヤは愛する主のお体が、どうして墓の中にないのか理解できませんでした。誰かが持ち出したのだと思いました。誰かがかくしたのだろうかとも思ったでしょう。
 ところが、思いもよらぬことが起こったのです。彼女はイエス様が生きていらっしゃった時、多分聞いていたと思うのですが、そのことが目の前で起こった時、理解できなかったのです。復活なんて、当時の人々にとっても、今の私たちのようにすぐに信じられるようなことではないのですね。
 ところがこの時、イエス様が話しかけても解らなかったマリヤでしたが、イエス様が「マリヤ」と彼女の名を呼んでくださった時、気がついたのです。マリヤの口からは思わずいつもの「ラボニ」という言葉がでたのです。この時のマリヤに常識はありません。イエス様がいるはずもない、などと考えたり、思ったりする間もありません。即「ラボニ」と答えたのです。
 今でも、イエス様がわたしたちを呼んでくださる時、それは信じていない人にとっては非現実なものとして、また不思議なこととして聞こえるでしょう。しかしイエス様が私たちの名を呼んでくださる時、この不可思議な現実を信じることが出来るはずです。

 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。<ヨハネによる福音書11章 25節>

 イエス様の復活とともに、私たちが新しく生まれ変わり生きるということ、それはイエス様の十字架の死と復活による罪と死からの勝利なのです。【釘宮孝枝】 
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by mitiru-takae | 2014-04-23 23:03 | 満ちる | Comments(0)

信仰とは(5)愛の契約によって 2014.4.13

信仰とは
 
 5)愛の契約によって
 
 あなたについてはまた、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはかの水のない穴から、あなたの捕われ人を解き放す。<ゼカリヤ書9:11>
 
 今私たちの生かされている時代を考えてみる。ここに来て私たちは、難しい教理や律法のみの捕らわれ人から、ただイエス・キリストの恵みと平安の中で生かされる、新しいイエス様との愛の契約に捕らわれた時代にいると思う。再臨を目の前にした、人間の歴史の中でも一番劇的な、感動の時代だ。私たちにとっては今が、水のない井戸から水の溢れる井戸へと移される時なのだ。それはまさに、砂漠では死から命へと移されることだ。解放の時なのだ。それはイエス様の血をもってもたらされるものだと言う。私たちに対するイエス様の愛は十字架の血潮である。
 自分の人生の中でも、この世に生まれてきて、今が一番、劇的で、感動ある時なのだという喜びなくしては今生きている甲斐がない。つまらなかったと思う人生は、やはりつまらない。ところが、同じ人生をイエス様の十字架に透かしてみると、つまらないどころか、色とりどりのオーラに包まれた、素敵な人生が見えてくる。
 主の十字架の愛はとこしえに変わらない。「われ更に汝を去らず、汝を捨てじ<ヘブル13:5>」と、かつて釘宮義人牧師が2度目の回心で(確かそうだったと思うが)「次の朝起きてもなお主は私のそばから離れないといってくださった」という体験のように、いったん救われると主の愛の契約は破られることがない。あるとすれば、自らが破るときだ。
 私たちは何から救われたのか。つまり、私たちの赦しがたい罪とは何なのか、罪の中にうごめいていた私の行く先には何があったのか、また、その真反対にある命の支配の中とは何なのかである。
 聖書にはこのように書いている。
 
 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである<ローマ人への手紙6:23>
 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。<ヘブル9:15>

 
 「私たちはサタンの陣地の中にいるようなものだ」といったのは死人を生き返らせる奇跡の人ガジマ牧師だ。このサタンの陣地の中で光の子供として輝き、勝利していけるのは、私たちが、永遠に変わることのない主の愛の契約により天の国籍を持つものだからである。イエス様の救いと解放は永遠であり、御国の権威は勝利の力である。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-04-17 09:51 | 満ちる | Comments(0)

信仰とは(4)主が共にいてくださる 2014.4.6

信仰とは
 
4)主が共にいてくださる
 
 王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。 <ダニエル書3章25節>
 
 「心頭を滅却すれば火も亦涼し」<杜 荀鶴(とじゅんかく)>
 意味を調べてみると、【心の持ち方ひとつで、いかなる苦痛も苦痛とは感じられなくなること】とある。「夏日悟空上人の院に題するの詩」といって詩吟をする人はよく知っている詩の最後の一節だ。
 心の持ち方で、あくまでも私たちにそれが出来ればだが、又そうしてでも、現状の猛火をくぐり抜けなければならないと必死の時、ある意味できることなのであろう。そのような境地に到達できる心や精神の修行や修養も必要なことであろう。
 しかし彼らにとっては修行の成果ではない。「たといそうでなくても」と王にこたえた三人たちは、ほんとうに燃えさかる炉の中に投げ入れられた時、彼らに苦痛はなかったのだ。苦痛を、苦痛と感じないのではなく、苦痛はないのだ。彼らは火の中を歩いていたのだ。主と共に!歩き回っていたのだから驚く。
 私たちが、一生懸命精神修行をして、少々の事は通り抜ける力を蓄えられたとして、やはり、「私はひどい拷問や、死に至る刑にはたえられないかなあ」と思うのだ。きっとこの世の修行くらいでは、心頭滅却の境地には至らぬようだ。いや修行さえも無理かもしれない(笑)。
 「ここで笑って逃げる訳にはいかない」というのは私だと思うが、いや「逃げる必要がない」というのがここにみる信仰だ。問題のさなかで、悩みのさなかで、燃えさかるサタンの攻撃の中で、平安を得るということが起こってくる。それはこのときの記事を見ると良くわかる。なぜかと言うと炉の真っ只中で主が共にいてくださっていたからだ。
 主とともにある苦しみ、悲しみは、思い換えや、自分の精神修行などで喜びや平安に変わるわけではない。
 
 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。<イザヤ書41章10節>
 
 弱いこの私が、強くなれるのは主が共にいてくださるこの時だ。共にいると言うことが修行や思いかえではなく、心の底から喜んで賛美している自分を見ることが出来る唯一の方法でもある。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-04-09 21:51 | 満ちる | Comments(0)