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信仰とは(3)たといそうでなくても 2014.3.30

信仰とは
 
3)たといそうでなくても
 
 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。<ダニエル書3章17、18節>
 
 「絶対に神を信頼する」こういったならば「世の中に絶対なんてあろうはずがない」という言葉が返ってくるであろうか。しかし絶対的信頼がなければ、シャデラク、メシャク、アベデネゴのように燃えさかる炉の中に入れられようとした時「たといそうでなくても」とはいえないのである。
 私たちは「自分がそのような目にあったら」と、恐れ、不安を覚える。だからこそ「言えない」のだ。他人事なら少々の恐れはあっても、「すごいなあ」で済ませる訳だ。
 このように何が起こっても受け入れられるダニエルたちのように、そこまでの試練や迫害にはあわずとも、イエス様を受け入れ、クリスチャンとなった途端、祝福に充ちた、素晴らしいことばかりが起こるかというと、多分、多くの人は落胆するであろう、試練は矢のごとくやってくるのだ。この試練を乗り越えられるのは、イエス様への「絶対的信頼」の他ないとしか言えない。私はキリスト教も、立派なご利益信仰だと思っている(笑)。このご利益、言い換えれば神の利益である私たちへの祝福は、人間の思いでは、推し量れぬものがある。そこに神のご計画があるからだ。
 他人が聞いたら「それくらい」と思うような小さな試練であっても、自分にとっては世界中が自分に敵対しているかのごとく思え、震えてしまう時さえある。病に対する不安は特にそうだ。こんな時、すぐさま主が不安を去らせ、又、病がさらりと癒されるなら、「たといそうでなくても」という信仰はいらないであろう。
 これはどちらになってもいい的な伏線を張った凄く無難な信仰というわけではない。「自分の思いどおりのいい方向に行こうが、自分の嫌な方向に行ってしまおうが、そのまま主の導きと従える強い信仰による祈り、生き方だ。パウロの言う「我にとりて生くるはキリストなり、死ぬるは(もまた)益なり」なのだ。
 主を信頼して生きるものに起こること、たとえそれが一時の悲しみや、苦しみであったとしても、それは希望を裏打ちされた悲しみ、苦しみであるのだ。そしてこの悲しみや、苦しみに対しては、案外容易に乗り越えられる力を頂けるものだ。何故ならイエス様はこう言っている。
 
 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう<マタイによる福音書11章28節>わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 <マタイによる福音書11章30節>
 
 「神の霊によって生きる」も、「死んで生きる」も、「たといそうでなくても」で生きるにしても、すべての答えは主イエス様のもとに行くことだ。
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by mitiru-takae | 2014-03-30 23:13 | 満ちる | Comments(0)

信仰とは(2)死んで生きる 2014.3.23

信仰とは
 
2)死んで生きる
 
 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。<ローマ人への手紙第6章8節>
 
 「いっぺん死んで見ませんか」という藤林イザヤ先生の著書がある。凄いな、勇気あるな、とこの本の題名にはびっくりした。この題名をみると中を見てみたくなる。死にたいという自殺志願者の人も含め人は誰しも死について本当のことが知りたいという思いがあるのだ。生まれてきた以上必ず死ぬという事は一人も例外がないことであるし、いったい死んでから先には何があるのだろうという疑問と、新世界への希望である。
 今、死にたいと思っている人が目の前にいるとして、この題名の言葉をその人の前で言えるかどうか。わたしにはそんな勇気はない。目の前で今死にますと言っている人に、説明したり、又、くどくどと説得などはできない。出来ることなら、そこまで心が冷え込んでしまう前にお会いしたい。それでもなお難しいであろう。できれば会わないですむよう主に祈る思いだ。「命の電話」などで死に直面した人の話を聞いてあげると言うのも訓練のいることだろうなと、「命の電話」にたずさわる方々には敬服している。 
 しかし、本当に生きるためには、死んでもらう必要がある。真に生きると言う事は、真実の死を知るということでもある。「肉に死んで、霊に生きる」ということだ。死んだ以上、「肉とは一切のかかわりがない」という生き方だ。
 イエス様は「死んでも生きる」と言われた。聖書の中でニコデモと言う偉い律法学者が。「えー、もう一度母の胎に入って生まれなおすのですか」といったほど、一度死んで生まれ変わるということは、とても理解し難い。頭の良い人ほど、解らないものだ。
 信仰を頭で理解しようとすると、弁証法なる論法を用いたり、表現をあれやこれやと論理的に築き上げてみる。しかし、どんなに解ったつもりでも、田舎のおばあちゃんクリスチャン(大変失礼な言い方で申し訳ない)のほうが、信仰を理解しているものだ。理屈抜きで、イエス様と密着して生きている。イエス様とぴったり合わさって生きていると知ってか知らずかこの世に対しても「死んで生きる」を実践しているのだ。そんな人になりたい、そう思うし、願っている。だからそのような方々をとても尊敬してやまない。
 そしてそんなおばあちゃんクリスチャンたちは、きっと、「罪の支払う報酬は死」という罪と決別した、新しく生まれ変わった瞬間の経験が、いつの間にか今のぶれない信仰生活を支えているのであろう。これも頭で理解していると言うよりは、聖霊様によって瞬時に与えられている新しく生まれる体験だ。「何かわからんけどイエス様が今日も生かしてくださっているわあ」「毎日、何があっても嬉しいわ」「今日もきつかったけど、守られたわあ」というようにである。死んで生きるを日々実践させていただいているのだ。
 釘宮義人師の日岡だよりで「やごは死なない」という一文があるが、その中で「新しい次元の生命に飛躍すること、それこそが「死」の本当の意味ではないか。」とある。まさにわたしたちもトンボやちょうのように、古い殻に執着することはやめ、成虫となって、大空を飛んでいきたいものである。これこそイエス様の命に生きる信仰であろう。【釘宮孝枝】
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by mitiru-takae | 2014-03-27 09:59 | 満ちる | Comments(0)

信仰とは(1)神の霊によって生きる 2014.3.16

信仰とは
 
1)神の霊によって生きる
 
 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。<ヘブル人への手紙 11章 3節>
 
 神様が造ってくださったものの中でも人間の体は特に素晴らしいものである。小宇宙としての体もさることながら、その中に吹き込まれた神の息は人間の生きる本質である神の霊によって生きるということを可能にしているからだ。
 五体満足ということばがある。五体に障害がない、欠けているところがない、病気がない、ということであるが、漢方での見方もある。骨や血管、筋肉、肌肉、皮などだ。しかし、人が泣くという時はどうだろうか。体全体を震わせて泣くという表現があるが、この時、五体にあわせて心が共鳴しているのであろうか、確かに反対を考えてみると、体全体で喜びを表しているとき、喜びの心がこの五体に共鳴しているということがわかる。
 五体の中に心は含まれてはいないのだが、五体不満足という時、不満足の一番欠けたるところは心だ。だが、たとえ五体は満足でも心が欠けると、五体の中に心は入ってないはずなのに五体は不満足となってしまう。
 自分が満足に生きているか、幸せであるか、ということは五体のせいではないということだ。つまり、いかに障害、病気、難問題をかかえていようと、その人の心が満足であれば、その人の生き方はまさに五体満足の状態、五体で表現できるくらいの幸せ者だということだ。
 わたしたちの体は、目に見えているものであるが、その本質は神からでたものであり、現れているものからではなく、顕すことのできるお方によって、この世に生かされているのだ。特に、イエス様から癒しをいただくと、心も解放されていることに気付く。癒しと解放はいつも共に主から来る。心の底から五体満足と思えるほど、主の平安に満たされるのでこれは、主からのものだとよくわかる。
 すると何が起こるのか、私の五体は心と共に「ワッハッハ!」と笑える。心が解放され、聖霊様に満たされていると、完全な五体満足になっているのだ。大きな声で「わっはっは!」と笑うのである。
 「心身共に満足だ!」、いや、これ以上の満足が「霊の満足」だ。私の魂のど真ん中にある「霊」がイエス・キリストにのっとられている状態の「満足」だ。これこそが「キリスト我がうちにありて生くるなり」なのだ。毎日「主によって生かされているなあ」という生き方を知らずしらずのうちにしている、ふと気付くと、周りの人々も「信仰をもって生きるというのはいいもんだなあ」と感じてくれるようになる。
 伝道なんて、まさに生き方なんだとわかるし、信仰って生き方なんだと悟らされる。「そういう人になりたい、そういう生き方をしたい」そう思いつつ、今日もイエス様に思いをはせている。
 
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by mitiru-takae | 2014-03-19 22:01 | 満ちる | Comments(0)

収穫のために働こう 2014.3.9

収穫のために働こう
 
 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。 <ルカによる福音書 8章 8節>
 
 イエス様は、周りにぞくぞくと集まってくる群集を前にして、たとえ話をされました。弟子たちも、「どうしてたとえでお話になるのですか?」と聞かれるくらいたとえ話は、聞く耳を持つものにしか聞くことの出来ない話だったのです。
 この頃ユダヤ地方の種まきは手に取った種を土地に放り投げるようにしてまいていたのでしょうか、種は風などによって飛ばされたりして色々なところに落ちたのです。道に落ちた種は鳥が食い尽くしてしまい、岩の上に落ちた種は水がないので枯れてしまい、茨の中の種は茨のほうが成長が早く上をふさがれてしまい、成長することが出来なくなってしまいました。しかし、種をまくものは、全ての種を、道や、岩の上や、道路に向けてなげるはずはありません。
 まず、イエス様が種をまく人として考えて見ます。すると、もちろん種は、みことばですから、それを大きく育てるために、イエス様は畑を耕し、肥料をまき、水を与え、土地をより良い土地に造りあげてくださるでしょう。そして、良い土地をめがけて投げてくださるに違いありません。だとすると、私の心の中の良い土地の部分を増やしていただければいいのです。そうすると、たとえ、不機嫌で、怠惰で、強情な心の部分があったとしても、そこに落ちて枯れて死んでしまう種よりも、良い土地で100倍に増えて成長する種のほうが多いに決まっています。
 私たちはなんと幸せ者でしょうか。土地作りも種まきも、お世話もイエス様、おまけに成長させてくださるのもイエス様、刈り取って私の実を喜んでくださるのもイエス様、共に実を食するのもイエス様なのです。
 では私たちは何もしないでいいのでしょうか。私たちはイエス様と、共に働くものとして、イエス様のお言葉を預かっています。働き人として種を携えて種まきに出かける必要があります。私たちはいつでも、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えよ<マルコ16:15>」とのイエス様のお言葉に従うものでありたいと思う、いや従えるのです。イエス様はすべてを準備してくださるからです。「種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。< イザヤ書 55章 10節>」とありますから、種まきに出かけましょう。下手くそで、なかなか良い土地に種が落ちないかもしれません。しかし、良い土地を探し出し、種を成長させてくださるのはイエス様ですから、恐れず、蒔きましょう。収穫は多いのです。
 私の心の土地を耕し良い地としてくださるイエス様は、又、私にも耕す土地を与えてくださいます。それは一人ひとりに、ふさわしい、最も最適な方法でもたらされるはずです。
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by mitiru-takae | 2014-03-13 01:23 | 満ちる | Comments(0)

わたしの誇り 2014.3.2

わたしの誇り
 
 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。<出エジプト記17章 6節>
 モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。 <民数記 20章 10節>

 
 神様がわたしたちと決して共有することのないものがあります。それは神様の栄光です。
 素晴らしい奇跡も、素晴らしい宣教の業も、私の手によって成し得るものではありません。モーセを助けるために神様はモーセの前に立たれました。皆には見えなかったかもしれません。モーセもホトホトこの文句ばかり言うイスラエルの民たちに愛想が尽きていたのかもしれません。ついつい「わたしたちが」と言ってしまいます。
 それでも神様は大いなる水をくださったのです。渇いたのどは潤ったことでしょう。神様の栄光をまるで横取りしたかのようなモーセでしたが、わたしたちも、ついつい、同じことをしてしまいます。
 
 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。<コリント人への第一の手紙 10章 4節>
 
 愛溢れる神様に栄光あれ!です。
 命の水をくださるイエス様に栄光あれ!です。
 アダムとエバを愛で被い生かしてくださったのも神様の業です。アダムとエバがどのように知識を身につけたとしても命(イエス様)の木抜きでは、神のようになるはずもなく、かえって罪を犯すと言う落とし穴に嵌ってしまったわけです。
 私たちはイエス様ご自身を求めなくてはなりません。イエス様ご自身を求めるとは、私の内に生きて働いてくださる、神の国,神の義そのものであるイエス様をお迎えするということです。すると、全てのものは添えて与えられると言ってくださいます。
 イエス様を知らない人たちから見ればまことにあほらしい、考え付くことさえ愚かに見える、イエス・キリストの十字架と復活。天に昇り神様の右に座したイエス様の送ってくださったご聖霊様を、何よりも勝って誇りとする、誇らしい生き方が、私たち信じるものの信仰人生です。栄光は主のもの、そして私たちには大いなる誇りがあるのです。
  
 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。<ガラテヤ人への手紙 6章 14節上>
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by mitiru-takae | 2014-03-05 15:33 | 満ちる | Comments(0)