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罪と愛 2014.2.23

罪と愛

 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 <コロサイ人への手紙 3章 14節>
 (これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです【新共同訳】)

 
 人生の中では何度か、親しい人と離れなければならない時があります。それはもしかしたらもう一生会えないかもしれないという場合だってありますね。
 昔と違って今は一人ひとりが携帯電話やスマートホンなど、何らかの連絡できるものを持ち歩く時代となっていますから、親密度に比例して写真なども交換したり、近況もシェアできます。
 しかし、この世のネットワークにもまして、神の霊のネットワークは素晴らしいですよ。聖霊様による交わりを経験した方々は、もう離れる事はないでしょう。といってもたまに例外もあるようですが(笑)、とにかく私たちを結ぶ主の愛の帯は、くっついてなかなか外れません。地上であろうが、天国であろうが、心の王国はわたしたちの共有財産です。 
 共に聖霊様によって分かち合える場があるということは、どんなに力強いでしょうか。共に主を礼拝できる喜びは、何ものにも変えられません。
 わたしたちがまだ贖われていない罪人であった時、自分の汚い心を、初めて神様の前で知ったときから、私たちは同時に神様の愛を知らされ続けています。罪の深いところに神様の愛が増すからです。
  
 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 <創世記 3章9節>
 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 <創世記 3章 21節>

 
 アダムとエバがその罪の重さを知って神様の前から隠れずにはおれなかった時のように、神様は今も私たちにご自身から呼びかけてくださいます。そしてその罪のどん底にいる時、愛をもって、動物をほふり、皮の衣をつくり、着せてくださったのです。
 神様が、アダムとエバの二人上に愛の皮衣を着せてくださったように、犠牲の血潮は、今も私たちの上に注がれます。イエス様の十字架による愛です。
 そして、愛の帯はしっかりと私たちを結びつけているのです。兄弟姉妹と、そしてなによりイエス様ご自身と結ばれているのです。
 【釘宮孝枝】c0265111_152218.jpg
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by mitiru-takae | 2014-02-26 15:01 | 満ちる | Comments(0)

主と共に一人立つ 2014.2.16

主と共に一人立つ
 
 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。 <サムエル記上 17:45>
 
 カラヒー(一人立つ)というアメリカインディアンの言葉があります。山の名らしいですね。戦争中であれば、どこの部隊からも援護を受けることなく、自分たちの力だけでミッションを成し遂げるというように、他からの力を借りず、自分自身の手で勝利を勝ち取るということでしょうか。
 かつてサウル王の時代、ダビデはゴリアテという身の丈3メートルもあろうかという大男の前に一人で立ちました。しかもこのゴリアテという男は若い頃から訓練を受けたというものすごいペリシテのベテラン軍人であったわけです。
 ダビデがゴリアテの前に立った時の様子を想像するとき、本当にダビデは怖くなかったのだろうかと思ってしまいます。物語であれば、当然ありうることなので疑う余地もないことですが、このことを通して主が語りかけてくださっていると思うと、他人事ではなく、わたしにとっては物語りでもありません。
 この時ダビデには強い味方がついていました。ダビデは一人でしたが、孤独ではありませんでした。主の霊がダビデの内に留まり続けていたからです。ダビデが一人立つ時、そこに神の霊がダビデの内に共にいたわけです。
 わたしたちが、震え上がるほどの恐怖、絶対に避けて通りたいとさえ思う大きな問題、悩み、他人には代わってもらうことの出来ない身に負う病等々、この時私たちは、問題とともに戦わないとならない孤独感というものがあります。
 ここに的確に石を投げつけて倒してくださる主の霊が、一人立つ時のわたしの味方です。
 
 サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。<サムエル記上 16:13>
 
 油注がれたこの日を境にダビデには主の霊がはげしく臨んでいたわけです。主の御名にかけて、勝利せねばならぬ、神の戦いであったのです。私たちにとっても同様です、ゴリアテの前に一人で立ちましょう。主と共に一人で立つのです。
 
 c0265111_1628987.jpgあなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。<ゼパニヤ書 3 :17>
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by mitiru-takae | 2014-02-19 16:27 | 満ちる | Comments(0)

私を宿としてください 2014.2.9

私を宿としてください 
 
 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。<ルカによる福音書 24章 32節>
 
 自分たちの話を共に歩きながら聞いてくださり、聖書によってご自身を示してくださったイエス様は、自ら私のところへ追いかけるようにして来てくださいます。
 イエス様がわたしの同伴者であれば、いつも心が燃えているに違いありません。先日、どこでも、いつでも突っつけば「ハレルヤ!」「感謝」「ワッハッハ」が、飛び出すでしょうと言いましたが、いつも燃えていると周りの人をこの熱に巻き込んでしまうでしょう。心配は無用です。聖霊様の火は心は燃やしますが、物は燃やしません(笑)。
 父が、最後のメッセージの中で「イエス様と共にいる孤独、イエス様と二人ならぬ独り、という体験を徹底的にすると、私のようにたとえ刑務所の独房に入れられても寂しくはありません。このことを深く知ることが出来るのは、徹底した、究極とも言うべき魂の餓え乾きを体験することです」といい、そのあと「しかし、苦しみなさいとはいえませんね。ワッハッハ!」と笑っていました。
 昔の父や、共に求めていた当時の信徒さんたちが、死ぬ思いで求めていたであろう「回心」や「聖霊体験」なるものが、確かに与えられていたということが凄いですね。
 その頃のことを思うと晩年の父は凄く柔軟であったと思うし、優しかったともいうべきでしょうか。あまり皆さんに徹底した難しい事は、言わないし、要求しませんでした。
 しかしそれは、必要な時に必要な人に、主ご自身が必ず働きかけてくださると言う明確な確信が与えられており、また、そういう新しい信仰の境地に入っていたからでしょう。
 エマオ途上のクレオパたちが体験したように、イエス様のほうがいつも、私たちに気づいてほしい、引き止めてほしい、あなたの心に泊めてほしい、と近づいてきてくださり、パンを裂いてくださいます。
 このことはクレオパと同じく私たちにもおこることです。
 いくら、論じ合っても、朝まで語り合っても、イエス様のことも、聖書のことも、聖霊様が働きかけてくださらなければ、ただの聖書という本、また、ただの偉人イエスでしかないものです。
 イエス様自身が働きかけ、ご自身を開示してくださる、そのような、今、私に密接にかかわって下さるイエス様を聖霊様によって知ることです。
 すると私のうちに心が燃え、喜びに満たされて「イエス様来てくださってありがとうございます。そして語ってくださってありがとうございます。わたしの貧しい心を今日の宿としてくださってありがとうございます」と感謝せずにはいられないでしょう。c0265111_16231914.jpg
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by mitiru-takae | 2014-02-19 16:23 | 満ちる | Comments(0)

主のうしろ姿(クレネ人シモンの物語) 2014.2.2

主のうしろ姿(クレネ人シモンの物語)
 
  彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。<ルカによる福音書23:26)
 
 「今日は過ぎ越しの祭りか」、私はそう思いながらフラフラと家を出てきたのです。
 実は、クレネから、やっとの思いでエルサレム近郊までやってきたばかりなのですが、ここでもなかなか仕事がないのですよ。「今日あたり何か良いことに出くわしたいものだ」と、私は半分ヤケになっていたのでしょう、何処をどう歩いたのかさえよく覚えていないのです。エルサレムの町のほうはなんだかえらく騒がしくて、お祭りにしてもちょっと、雰囲気が違うのです。しかし私は、人が多いほうが何か、仕事にありつけそうだし、いい話が転がっていそうなので、賑やかなほうへと歩いていったのです。
 何の当てもない訳ですから、人ごみにまみれて人々に押し流されるままに町の中へと入っていったのですが、その時私の目に入っていたものと言えば、石畳の道路と人の足ばかりです。それしか見えていなかったのです。
 と、その時です。私はいきなり腕をつかまれました。
 ローマの兵隊です。「何をするのですか」「わたしは何も悪い事はしていませんよ!」。
 必死に叫んだのですが、誰も聞いてくれません。それどころか、無理やりに、本当に無理やりにです。大きなズッシリと重い太い木の柱が私の肩に負わされたではありませんか。
 一瞬膝がガクッとなりよろけそうになりました。なんとか倒れずにすみましたが、目を上げたときやっと事情が飲み込めました。なんと、私の前に居る十字架刑の罪人の代わりに,この重い十字架をゴルゴタの死刑場まで担いで行けということらしいのです。「とんでもないです」「どうしてわたしがこんな目に会わねばならないのですか」と、悔しいやら、情けないやらで、前に歩いていく罪人を睨みつけたのです。
 ところが、前を歩いている、傷だらけで、頭から血を流して今にも倒れそうに歩いているこの罪人から、目に見えるところとは、まったく違う、愛と、命と、力が伝わってくるのです。「何だろう、何故だろう?」惹きつけられるままに、私は一歩、一歩、この人と共に歩いて行ったのです。涙が溢れました。どうしてでしょう。
 気がつけばゴルゴタに着いていました。歩いていた時に耳にしたのですが、この人はイエスという名前らしいのです。そして、十字架の上のこのお方の死を見ていた時、「まことに、この人は神の子であった」という声を聞きました。私もそのとおりだと断言できます。
 このあとわたしは家に帰り、今日あったことの一部始終を妻や子供たちに伝えたのです。「今日私は、私たちの救いを見たよ」と。
  
 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである<コリント人への第二の手紙5:21>
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by mitiru-takae | 2014-02-05 15:15 | 満ちる | Comments(2)