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この一年を主に感謝いたします 2013.12.29

この一年を主に感謝いたします
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 この一年は私にとっては、なくてはならぬ新しいノートをいただいたような年でありました。毎日毎日が生まれたての赤ちゃんのように、新しいことの連続で、目を見張るようなイエス様の素晴らしい御業を書かせていただきました。
 イエス様に文句なしに従うとき、わたしたちの目の前には主の大路が拓かれ、天の門が開くのを見せていただきました。また、みことばの門が開くのを見せていただきました。
 そして、「さあ、出かけて行こう」のイエス様の掛け声に従って、さらに、新しい一歩を踏み出す、そのような新しい夜明けの年がもうすぐやってきます。私たちの日々の生活、日々の生き様が、一歩、一歩イエス様に近づいていくのが私たちの喜びです。
 また、この一年私たちの交わりも、肉においては近くに居ても、遠く離れていても、魂において、また、霊においては、心のネットワークで結ばれ、釘宮義人師の言う「心の王国」での交わりがいつも出来ているようで、肉も霊も共におおいに祝福されてきたのです。
 先々週は「未伝地ミッション・Kご夫妻」が教会を訪れてくださり、「旧約聖書の創世記以来、今や『再臨のみが残された時代』なのです。」ということについて教えていただきました。私たちの信仰は知識ではなく、生き方だといつも思ってはいますが、頭では理解していても、K先生の言う「再臨をどう待つか、待ち方が重要だ」という具体的な生き方が、いまひとつハッキリしていなかったように思えます。
 日々を惰性で生きていることほどもったいない事はありませんね。肉で生きる期間は無限ではありません。この世に生きている限り、生かしていただいている間に少しでもイエス様の手となり足となって働かせて頂こうではないですか。サタンに立ち向かい、勝利して行こうではありませんか。
 一人ひとりが出来る事は異なるでしょうし、天に積める宝はどのようなものなのか、案外この世では、とても貧しいものだったり、捨てられるほど小さなものであったりするのかもしれません。弱い者、また小さな子供の心が、天国では一番大きいのでしょうか。
 「私たちの中に生きてくださるイエス・キリストによって、私の人生そのものが、ガラリと新しく生まれ変わり、新しい人として生きることが出来る」そのような生き方を頂きたいですね。天に帰ったとき再会の大喜びを果たせるようにしたいものです。
 
 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。< コリント人への第二の手紙 5:17>
 
 新しく生まれ変わることこそ、私にとって初めであり、終わりです。患難を乗り越え、信仰に熱心でいられるのも、喜んで過ごせるのも、祈り求め続けることが出来るのも、みな、キリスト・イエスによって新しくされているからです。新しい命によって生きているからです。
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by mitiru-takae | 2013-12-31 22:32 | 満ちる | Comments(0)

世界で初めのクリスマス 2013.12.22

世界で初めのクリスマス 
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「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心に
かなう人々に平和があるように」。<ルカによる福音書 2章 14節>

 
 クリスマスおめでとうございます。
 ジングルベルの歌の声にケーキやお菓子の甘い香り、そしてサンタクロースのプレゼントには、子供でなくとも心が踊り、はしゃぎたくなります。私の子供の頃は、我が家がクリスチャンホームでしたので、貧しいながらもそれなりの(笑)サンタさんのプレゼントをいただいていました。嬉しいものでした。
 しかし、一番初めのクリスマス、イエス様がお生まれになった時は、静かな静かな夜であったことでしょう。ところが、その静けさを打ち破るように、外灯もネオンもない、星と月明かりだけの暗い夜に、町外れの丘で羊の番をしていた羊飼いたちの目の前に、突然神様の栄光が輝きました。そして御使いたちの賛美が高らかに響き渡ったのです。
 神様は、この世で最も貧しい者の中に真っ先に光を照らしてくださいました。生まれたての神の独り子イエス様を一番初めに羊飼いたちに見せてくださったのです。羊飼いたちは飼い葉おけの中にイエス様を見つけたのです。
 イエス様は、今も2000年前と同じように、世界で最も貧しく見える私たちに贈っていただいた、世界で最高の神様からのプレゼントです。
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by mitiru-takae | 2013-12-28 21:58 | 満ちる | Comments(0)

主に栄光あれ! 2013.12.15

主に栄光あれ!
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 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。<ヨハネによる福音書 1:1~3> 
 
 「初め」は文語訳では「太初」です。この初めは創造の初め(文語訳では「元始」)以前の初めです。肉体となって私たちのうちに宿ったこの言葉は、今私たちのうちに生きておられるイエス様のこと、世界が作られる以前「太初」からおられるお方です。
 すべてのものは、とありますから、私たちの生まれてきた事実、今生きていること、私たちの言動、この世にあるもの全てが、イエス様によって造られ、完成し、物事は成就していくわけです。
 
 私たちのうちに宿り、私たちの中で永遠の命を溢れさせてくださるお方こそ、私たちの救い主、王の王、この世で私たちを輝かせてくださる「光」そのものです。闇を蹴散らし、勝利を掲げ私たちの勝利の主として私の魂の中に君臨する主イエス・キリストに栄光あれ!
 

  
恵みを用いて
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 今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。 <コロサイ人への手紙4:5、6>
 
 文語訳聖書をみてみると「なんぢら機をうかがい、外の人に対し知恵をもて行へ。なんぢらの言葉は常に恵みを用ひ、塩にて味付けよ。・・・」となっています。以前S姉がここのみことばを「文語訳の聖書では『恵みを用い』と書いています」と言ってくださったことがあります。私たちの思いやりのある、また、適切な言葉はイエス様の恵みを用いたものでなければ一人ひとりに対応できないように聞こえます。
 塩も効きすぎるとからくなるし、足りなければおいしくありません。いつもおいしい食事を作ってくださるE姉が『いい塩梅』と言っていましたが、本当に私たちの言葉をいい塩梅に味付けするにはイエス様の恵みを用いることですね。 
 クリスマスが近づいてきました。私たちの罪を贖うために人としてこの世にうまれてくださったイエス様こそ恵みの塩のようです。塩の効き目は全ての味を生かし、自分は融けて形がなくなってしまうものです。しかし、塩は生きているのです。まるで私を生かす命そのもののようです。このように、私の中に働いて本物の命で生かすことの出来るお方、それがイエス様です!
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by mitiru-takae | 2013-12-22 03:04 | 満ちる | Comments(0)

主イエスに信頼せよ 2013.12.8

主イエスに信頼せよ
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 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。<使徒行伝16:31>
 
 「直訳すると『主イエスの上に信頼せよ』となります。『イエス様にゾッコン信頼を傾ける』という感じです。」(釘宮義人師メッセージ集より)
 「主イエスに信頼せよ」とタイトルをつけた義人牧師に、これはおかしい、「イエスに」ではなく「イエスを」の間違いではないのかといぶかしげに、いやもっと自信ありげに指摘してきた方がいたらしいのです。義人牧師の独特な直訳と言いますか、言い回し方なのですが、言い得て妙なのです。
 日本語では、ギリシャ語や英語などと違い、通り一遍の表現になってしまいますが、信仰の目、霊の目をもって見ないとわからないところかも知れません。
 
 さて、「イエスの上に私の信頼を置く、あとはイエス様におまかせ」、これこそ信じるということです。車の運転手に命を預けてドライブしているのに似ています。これほどまでに相手を信頼している、つまり、命をも預けていると言う状態は、考えてみると普段あまり気づかないけれども、素晴らしいものですね。バスや電車、飛行機でもそうですが、信頼できずに、心配していては乗ることが出来ません。
 このように信じると言う事は、その相手に命を預けることにもなります。私たちはいつもイエス様に命を預けています。というより、命を預かって生きているのです。私の本当の命はイエス様の中にかくされているのですから。
 この使徒16章31節のお言葉は、言い換えると、自分の家族の命を救い守りたければ、又、自分の大切な人の命を救おうと思うならば、イエスに信頼をおきなさいということになります。
 
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。<創世記12:3>
 
 家族を愛し、いつも魂は共にいます、ということが祝福の基としての、家族の中でのわたしたちの立ち位置です。わたしのイエス様に対する信頼が私の愛するものたちの命も共にイエス様に預けています。また、イエス様から家族の命も預かっているのです。
 そして、それは家族の私たちに対する相互の信頼関係でもあるのです。なぜなら、私が祝福する者ではなく、神様は「わたしを祝福してくれる者を祝福する」といっているからです。
 私たち一人ひとりが周りからの信頼に、家族からの信頼に足るものであるのか、祝福してもらえる者なのか、自分を吟味してみましょう。そして事毎に祝福と感謝の祈りをささげましょう。イエス様にゾッコン信頼して。
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by mitiru-takae | 2013-12-17 13:25 | 満ちる | Comments(0)

再びベテルへ 2013.12.1

再びベテルへ
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 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。
 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。 <創世記 28 11、12>

 
 母と結託して父をだまし、兄エサウの長子の祝福を奪い取ったヤコブがベテル(神の家、天の門)と名づけたこの所は、逃亡第一夜の地であったでしょうか。ヤコブが試練の只中でいただいた神様からの祝福を、魂のどん底から知らしめられた場所であったでしょう。私はここがヤコブの本当の信仰の出発点であったのだろうと思うのです。
 数々の試練を乗り越えて、再び、このべテルに帰り祭壇を築く、そのようなヤコブを見るとき、その信仰の基盤として、始めのべテルでいただいた、神様からの祝福のことばがあるのでしょう。これがヤコブの信仰を支えていたのだろうと想像するのです。
 私たちも信仰をいただいた始めの時を思い出してみると、実に様々なことがあったにもかかわらず、守られてきたんだなあと、今更ながらイエス様に出会えてよかったと、感激するのです。ヤコブがベテルに戻り祭壇を築いたように、私たちも帰るところがあるのだと喜びに満たされます。安心できるのです。
 私たちの努力で地から積み上げたバベルの塔のようでは、到底神様のところまでは到達できません。しかし、このヤコブのべテルでの神様の階段は、天から直接私たちのところへ降りてきてくださる、一方的な神様の呼びかけ、祝福です。天と地を一瞬にして結ぶことの出来る神様の大能と私たちへの憐みと愛の成す御業です。
 イスラエルと新しい名をいただいたヤコブはついに祝福と信仰の継承者として、奪い取ったままではなく正当なアブラハム、イサクに継ぐ神の祝福の相続人となり得たのでしょう。私たちも同じ神を神としているのです。
 今も変わらず、神は、私たちの魂の中にイエス・キリストとして生きてくださっています。ヤコブがいただいた祝福は、今の私たちにも同じように与えられるものです。
 
 「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。(私たちの生きる場所)
 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。(信仰の子供たちによって)
 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地(私のべテル)に連れ帰るであろう。
 わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事
(約束を)を行うであろう」。<創世記 28: 13~15>
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by mitiru-takae | 2013-12-06 10:02 | 満ちる | Comments(0)