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祈り求める 2013.11.24

祈り求める
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 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。<マルコによる福音書 11:24>
 
 私は最近よく「他人に対しては祝福のお祈りを、自分に対しては、神様の御心を教えていただくように祈りましょう」と言っていますが、これは一番簡単なお祈りであり、また一番難しいお祈りでもあるようです。目の前で悪口を言われた時や、またわけもわからず暴力を受けた時でも、果たして目の前の相手を見て神様の祝福を祈ることが出来るのでしょうか。
 自分に対して害を与えるもの、もしくは与える危険性があるもの、これに対しては、本能的に嫌悪感を持ち、自分を守ろうとします。自分にとっては心地よい満足できるものがよくて、試練や患難なんてそんなものは近寄ってほしくはないものです。
 しかし、聖書はいいます。
 
 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。<ローマ人への手紙 5:3~5>
 
 神様の私たちに対するご計画は、全てのことが最善につながります。いいえ、どちらかと言うと、患難が起こった時、その時に練達をも我が物と出来る希望が生み出されている、ということになります。真に、パウロのようにイエスの御名の下に一直線に走れる力が,沸いてくるのでしょう。力強く成長させられているのですから。
 恐れずに求めること、祈り求めるならば、既に叶えられたと信じること。一番簡単で一番難しそうなこの祝福の祈りが神様の前に聞かれるのは、「神様自身の信仰」、それは私のうちに生きている「イエス・キリストの信仰」によって、神様の御心を祈らされているからに違いありません。
 
 神を信じなさい(神の信仰を持ちなさい) <マルコによる福音書11:22>
 
 そして又、あるときは愛する子が父に駄々をこねるように「アバ、父よ。聞いてください」と、腕をひっぱり、耳を引き寄せるようにして祈ります。それでも主は、聞いてくださいます。愛する子に良いものを与えない父は本当の父ではないですね。苦笑するイエス様のお顔が見えるようです。
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 《最後に義人牧師の日記から》
 「イエス様ありがとうございます」としょっちゅう言うがよい。思い出したら、そう言うがよい。時には叫ぶように言うがよい。(1989/12/16筆)
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by mitiru-takae | 2013-11-30 23:10 | 満ちる | Comments(0)

ちょうど良い時に 2013.11.17

ちょうど良い時に
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 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。<ペテロの第一の手紙 / 5章 6節 >
 
 『誰が(神様が)、誰に(わたしたちに)、いつ(時が来たとき)、どこで(神の御手の下)、どうすれば(自らを低くすれば)、何をしてくださる(高くしてくださる)』と、ちょっとバラバラにしてみましたが、いかがでしょうか。
 新共同訳では「かの時」となっていますが、新改訳の聖書では「ちょうど良い時」とかかれています。私はちょうど良い時が好きです。伝道の書では「神のなされることは皆その時にかなって美しい」とあります。本当に神様のなされることは、すべてちょうど良い時なのです。私にとっての最善のための必然が、今、神様が今だという時におこっているのだなあと何かあるごとに思わせられます。
 神様の御手の下というのは、神様の絶対的な権威の下です。全ての災いや、敵から守られていると同義ですね。パウロが持っていたローマ市民権よりも、日本国籍を持っているということよりも問題にならないほど、すごい神様の権威の下で守られているということになります。
 この主権者である神様に心から従うとき、わたしたちはキリストを模範として、初めて謙遜を身につけ、へりくだる者となり得るのです。そしてイエス様こそ、真にへりくだった、私のために十字架につけられた者、それは最高に高みに上げられた復活のイエス様に他なりません。
 わたしたちも、神の前にへり下っているならば、時が与えられるでしょう。希望を持って、天の国籍をもつ家族として、イエス様の下さる時を待とうではありませんか。励ましあい、赦しあい、支えあって、共にイエス様の高みにまで、引き上げられたいですね。
 毎日、成長して、高くしていただきましょう。
 
 最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。<ペテロの第一の手紙 / 3章 8節>
 
 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。<ペテロの第一の手紙 / 3章 9節>
 
 私たちを守ってくださるイエス様に、期待し、希望を持ち続けることが、信仰にかたく立つことであり、悪魔に対抗できる勝利の力を持つことに繋がります。信仰を一つとし、心を一つとして、共に主の御業に期待して日々すごしていきたいですね。ハレルヤ!
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by mitiru-takae | 2013-11-30 23:09 | 満ちる | Comments(0)

天と地に満ちる共有財産 2013.11.10

天と地に満ちる共有財産 

 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 <エペソ人への手紙 / 1章 23節 >
 
 この御言葉は、教会の週報のトップページにのせてある、指標聖句だが、満ちるという意味をちょっとだけ実感することができた。!
 先日「人の記憶は脳の外に蓄積されている。つくられる。」という記事を見た。
 これはある方の臨死体験の話の中で語られていたことなのだが、私は思わず拍手した。と同時に、もっといろんな本や人の書いたものを、読まないと時代はどんどん進んで、私の知っていることなんて、なんてちっぽけなんだと、少々いや相当ガックリもした。
 現代の情報の多様化、多量性は人の思考や、記憶の情報処理が追いついていかない。追いついていってないというのが本当だろうか。脳の外側で全ての記憶が積み上げられているのであれば、好きなものだけ、必要なものだけが、とりあえず私の脳内に読み込まれているということになる。
 そう考えてみると、なんだか納得できる。色々な情報が、また場所や時間にかかわらず、共有できていることが多々ある。同じことを感じていることがある。同じ悟りというかキリスト教的に言えば、神の啓示を別々の場所で共有していることが少なくない。つまりすべての人の記憶や、脳外につくりあげられた情報は、すべての人が、一度に共有できるということにもなるのだからすごい。しかし、違う思考や、受け取り方によって、自分の脳内に取り込むものがそれぞれに違うのだ。
 この、人の共有財産と思えるものは、ものすごいものだ。しかし、貯蔵するのに、場所はいらないのだ。場所はあるのに、あるはずなのに、決して邪魔にならないのだから可笑しい。神様の無尽蔵の宝は、この宇宙に満ちている。満ち満ちている。全てを満たしても、なお余りある神様の宝は、永遠に腐らず、劣化しない。満ちているのにまだ満たせる。
 「天国とはこういうところなんだろう!」、こう思いながら、私はすごく心が昂揚していく、天に帰った父の今の姿を想像しながら、天と地との共有の場所で、共に踊りたい。
 これこそ、天のエクレシア、地に於いても天国を味あうことの出来る「心の王国」だ。「主よ今すぐ来てください、勝利はすでにあなたのものです。」
 
 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、<ヨハネの黙示録 / 21章 3節 >
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by mitiru-takae | 2013-11-30 23:08 | 満ちる | Comments(0)

夢を見るほどに祈ろう 2013.11.3

夢を見るほどに祈ろう 
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 ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」 <列王紀上 / 3章 5節 >
 
 ダビデの後をついで王となったソロモンは、夢の中で主のお言葉を聞きました。ソロモンにとって毎日の祈りは私たちの想像をはるかに超えるほどの求めであったに違いありません。現実を見るとき、ソロモンにはなくてはならぬものであったのでしよう。おびただしい民の中にいる、それゆえ与えてくださいとソロモンは言っています。
 主は「あなたのことばに従って、賢い、英明な心を与える」といってくださいました。それどころか、「あなたの求めないもの、すなわち富と誉をも与える」とおっしゃってくださったのです。この夢は現実となっていました。ソロモンの得たものは神を畏れるものの知恵、判断する心そのものでした。 
 願わずとも与えられたものも、この世にあっては素晴らしい豊かなものでした。しかし、このソロモンでさえかなわないほどに着飾っているのは野の花だと、イエス様が言っておられます。この世の物はすべてソロモン自身が言っているように「空の空」なのです。
 
 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。<マタイによる福音書 / 6章 33節>
 
 私たちは夢を見るほどに求めて祈っているでしょうか。
 イエス様が「何を与えようか」と問われる時、果たして、すぐ応えることができるでしょうか。私たちの小さな信仰で、精一杯祈り求めるとき、たとえそれが、私自身の頑張りであり、熱心さであったとしても、イエス様は聞いてくださっています。
 この祈りがみこころにかなうまで、イエス様の御心を引き出せるまで祈り求めるならば、「求めよ、さらば与えられん」のお言葉のとおり与えられるでしょう。時間は関係ありません、イエス様の時が来さえすれば、今すぐです。
 私の極々小さな体験からすれば、御心は思いもよらない解決法をもたらしてくださいます。人知をはるかに超えたものを、願わないものまでも添えて、与えてくださるでしょう。それほどイエス様は私たちを祝福してくださるのです。
 イエス様のお心を引き出す祈り、これは、私のつたない祈りをイエス様がご自身のお心として父なる神様にとりなしてくださることを求めるお祈りです。
 夢を見るほどにいつも心の中にこの御心を求める祈りを持っていたいと思います。
 
 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 <マタイによる福音書 / 7章 7節>
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by mitiru-takae | 2013-11-30 23:07 | 満ちる | Comments(0)

あなたの信仰 2013.10.27

あなたの信仰
 (マルコによる福音書10:46~52参照)
 
 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。 <マルコによる福音書 / 10章 52節>
 
 イエス様に「あなたの信仰」といっていただけた盲目の乞食バルテマイの叫びまわる姿は、まるでかつての私の姿のようです。ただイエス様の名を聞いて叫び、呼びまわるだけの悩みの日々から解放された今を感謝しています。
 バルテマイが身にまとっていた、これだけは手放せないという乞食の上着のように、私たちはなかなか手放せないものが沢山あります。それを脱ぎ捨てることが出来るのも、私の心の中に大変革を起こしてくださるイエス様の声なのです。
 叫び、求め、倦むことなく祈り続けていると、イエス様は必ず私たちの声を聞いていてくださいます。そして私たちを呼んでくださるのですね。
 踊りあがるほどの喜びが、全身を満たします。足が痛くても、腰が痛くても、頭痛で、頭が上がらないときでさえも、その現象とは関係のないところで、私たちは、喜びおどっていることができるのです。他人には見えないかもしれません、しかし、イエス様と共に居る喜びは他人にはわからなくても、私にとっては全てに勝っているものなのです。
 バルテマイにはもう、イエス様以外の声は聞こえません。世の人々の声は、私たちの心をイエス様から引き離そうとする巧みな言葉で心の中に介入してきます。しかしその巧みなそそのかしも彼を捉えることはありません。イエス様の声にいつも耳を傾けているという事はサタンに私をそそのかす機会を与えないということになります。これがサタン(世)に勝つ秘訣ですね。
 そしてもう一つの世に勝つ秘訣は、バルテマイの信仰です。
 
 「わたしに何をしてほしいのか」その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」    <マルコによる福音書 / 10章 51節>
 
 わたしたちも目が開けるとイエス様がみえてきます。そして「あなたの信仰があなたを救った」といってもらえるのです。ただ、求めただけです。叫んだだけです。御名を呼び続けただけです。しかし、この時、私たちの信念、信心、熱心など、まるで信仰とは思えない人間的行いでさえ、これを見て、イエス様は「あなたの信仰」といってくださいます。
 その時、バルテマイや私たちの心の中にイエス様ご自身の信仰が働いているからです。それを「私の信仰」とみなしてくださるのです。これこそ世に勝つ信仰です。私の信仰は、実にイエス様の信仰なのです。
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by mitiru-takae | 2013-11-30 23:06 | 満ちる | Comments(0)

信徒一泊セミナー 2013.10.20

信徒一泊セミナー

 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。<ヨハネの黙示録 3章 20節 >
 
 セミナーという集会名は義人牧師の時のそのままなので、少しおもはゆい感はいなめません。しかし、第一回目は賛美集会、第二回目の夜の集会では聖書学習会さながら、朗読、聴く、実行と、一人ひとりが聖霊様による啓示を受け取れた様に思います。第三回目は次の日午前の集会で、黙示録一章を学ぶことが出来ました。
 まず、第一回目の集会は、賛美集会の名のごとく、全員が賛美と祈りに満たされました。この時司会をしたG姉妹は、多分、今迄で一番燃えに燃えた賛美であったろうと思います。聖霊様が姉妹に素晴らしい賛美と祈りを通して、集会を導く力を与えられたように思います。
 姉妹の顔は賛美の喜びの涙でグシャグシャ、しかし、天使のように輝いていました。この賛美の後の祈りも、これまた、すごいとしか言いようのない聖霊様に満たされ、お酒に酔っているのかと思われるくらいの異言の祈りが続いたのです。霊歌と、時として起こる笑いが響きわたったのです。
 この時、自分の心にある全ての物をイエス様の前に注ぎだした、そのような感じでした。魂が、心が、内なる思いが、いちどきに解放されたようであり、特に、一人を皆で囲んでの祈りは全員に及び、大いなる恵みと祝福が皆を覆った時でありました。
 この感激に続いて、夜はこれまた、個人個人にとって、よき、聖霊様との知恵と知識の交わりとなり、時間の許される時でないとできない、長い聖書の一斉朗読にはじまりました。
 そして、み言葉による個人への問題提起と解決、また、自分に対する聖霊様による指摘の証、まさか、こんなところにあったとは・・・という、思いもよらぬ御言葉との出会いに感激したり、様々な形でイエス様と交わることができました。
 私たちの心の中にイエス様を迎え入れたとき、十字架による贖いの血潮と、イエス様の復活のお体が私の魂の中で永遠の命と平安を満たしてくださいます。イエス様の真に豊かな食卓に共につくことが出来る喜びを得ることが出来るのです。
 
 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。 <ヨハネの黙示録22章 20節>
 
 第三回目は、私の魂の中に起こる大変革を黙示録第一章を通して期待させられました。盗人のようにやって来る終わりの主の勝利の時を、今すぐにでも味わいたいと、最後はまた祈りと笑いの止まらない集会となりました。ハレルヤ!
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by mitiru-takae | 2013-11-30 23:05 | 満ちる | Comments(0)