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今日、なすべきこと 2013.10.13

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 「今日、あなたの癒しを告白してください」という見出しに引かれて、又々、オズボーンの告白の力を開いてしまいますが、今日という言葉に目が釘付けになるのです。私たちの今日は私たちのために主が下さったものです。今日を逃したら二度とやってこない機会があるかもしれません。
 この主からいただいた大いなる機会、以前「特別な時」といいましたが、その時は私たち自身には、理解出来なくても、最善の時が神様によって計画され、用意されているのです。
 その中に、生かされている私が今日なすべきこと、それは、沢山あります。忙しいくらいです。もしかすると、頭痛かもしれないし、嬉しくないことかもしれない、とても疲れることかもしれないのです。しかし、喜んで働けます。喜んで実行します。未来に希望があって、主が必ず報いてくださるものだからです。
 「いいえ、私には出来ません」。たとえそのように思えても、主のなさることですから、「はい、主にあって私は出来ます」との告白があれば、み言葉が、押し出してくださるでしょう。私たちには、一人ひとりに主から託された「私の今日」があります。
 先日、ナイトdeライトというクリスチャンの音楽グループのライブが、大分でありました。体に響いてくるエレキギターや、ドラムの音に、始めは「心臓にわるいかな?」とか思い、なかなか立てなかったのですが、自分でもおかしいくらい写真を撮るわ、手を打つわで、同調してしまいました。そのライブの終わりも間近かの時だったか、楽器だけの演奏が暫らく続いたのです。そのとき私は、ああ、これは「異言」の祈りと同じだな、と思ったのです。イエス様と直結した時なのです。
 どんな場所でも、どんな時でも、いつの間にか祈っていることがよくあります。大祭司が至聖所で神と語る時のように、また、モーセのように、顔覆いなしで、私たちはイエス様と語り合えるのです。
 
 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」<Ⅱコリント6:2>
 
 私たちが今日という与えられた時の中で、出来ること、それは単純です。
 自分の居る場所で、主を賛美し、祈り、主からの、恵み、祝福、癒し、平安などを受け取り、生きること。歌の好きな人は歌うその中で主を褒め称え、読書の好きな人は沢山本を読み、そこに共におられる主に感謝でき、出かけるのが好きな人は、出かけていって、その場所で、主のために生かされている喜びを表せばいいのだと、声を大にして、喜びを告白すればいいのだと思っています。
 人間って、素晴らしい! 神様を褒め称える方法を、こんなにも沢山知っているではないかと、今日はイエス様の前で、少しだけ鼻を高くしています。
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by mitiru-takae | 2013-10-21 09:54 | 満ちる | Comments(0)

義認、聖化、栄化 2013.10.6

義認、聖化、栄化
 
 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。 <イザヤ書40:31>
 天国では、きっと「自由なクリスチャン」を謳歌しているんだろうなあと、ほくそえみながら父を思う。この召天一周年を迎え、時の経ったことを改めて思います。今は足も疲れず、仰向けに寝ても丸まった背中は痛まず、ただ主を賛美していることでしょう。
 最近は「そうか、父は死んだんだなあ」と思うようになってきました。文集の最後のページの二人の写真を見ながら、「もう戻ってこない肉」に少しばかり寂しさを感じています。
 父の信仰の2本柱として、信仰による義認、生きている内住のイエス・キリスト、があげられると思います。父の「信仰によってのみ義(正しい、罪を認めない)とされる」という信仰は、徹底したものでした。何があっても私は神に義とされて生きている、という生き方がそのまま見えていました。また、たとえ自分がイエス様から外れかかってもイエス様は決して私を離れず見捨てない、だから大丈夫!という自分の内から外れることのないイエス様を、心から信頼して生きていたと思います。
 それにしても、義認、聖化、栄化と変えられていくんだといつも言っていた父の聖化の部分をちょっとだけ眉をひそめて苦笑いしていたことがありました。「凡聖」のことです。
 自分の口で自分を聖いなどと、よくも言えたものだと、今だからいえますが(笑)、当時は、ヒンシュクものだと、90歳の老人だからこそ許せるよ、というくらいに高飛車に見ていたくらいです(反省)。
 しかし、そういわざるを得ない、そうとしか言いようのない己の霊性に目覚めていたであろう父の「凡聖(平凡だが聖い)」を、今やっと理解することができるのです。肉がなくなって、初めて本当に見えてきた父の霊性、人格がまことに聖化されているものだとわかってきたからです。
 天国では、今、イエス様の臨在の中で栄化されていってるんだなと、もしかすると、こんどは「凡栄」などと言っているのではないかな、とか考えていますと、喜んでいる父の顔が目に浮かび、思わず笑ってしまいます。
 私たちも肉の部分を取り除くと霊の姿が見えてくるのだと思えます。周りの人々に接する時、出来る限りこの目で見ている肉の部分を透かして、その人の霊性、人格そのものを見せていただけるように、自分の霊の目をイエス様によって訓練していただき成長させていただきたいですね。聖霊様によってそれは確かに可能なことです。
 何を見ても、誰を見ても、みな一つの思い、みな一つの愛で結ばれていて、一瞬にしてみんなの心がわかる。イエス様のお心の中に居ることがわかる、そのような栄光のキリストの体の中で生きている、これこそ天国であり、私たちはその前味を知ることさえ出来る素晴らしい特権をいただいています。「凡聖」の父を思いだし、私もそれを目指して行こうと、父の「凡聖」を感謝しています。
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by mitiru-takae | 2013-10-21 09:51 | 満ちる | Comments(0)

光の子らしく歩きなさい 2013.9.29

光の子らしく歩きなさい 
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 あなたがたは以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい<エペソ5:8>
 
 一人で独立伝道を始めた父が、いま教会堂の立っている地へ引越してきたのはもう53年くらい前になるでしょうか。細々と下請けのタイプ屋を始めようと、まんまと主のご計画にはまってしまったのですが、はからずも、事業主としてある程度の成功を収めた事は、主のご計画が確かなものとしてこの世に示されたものだと感ぜずにはおれません。

 「自分の口は自分で満たす」的なパウロ流の生き方は、社会生活を営むものにとって、大きな力となり勇気づけられるものとなり得ます。
 わたしたちは所謂世捨て人「仙人」ではありません。世の中で、世の人々の中で、光の子らしく輝くものであるべきです。今ある自分の環境は主が下さったものです。主が私のために置いてくださっている所有地なのです。父はこれを「コート」といいました。テニスコートの「コート」ですね。
 
 光の子らしく生きるということは、「誰にでも好かれるいい人」になることではありません。「主に愛されている人」と自他共に認めずにはおれない、羨ましいくらいの神様にエコヒイキされた生き方、「光の子」としての存在を世に示しながら生きる生き方なのだと思えるのです。
 先々週の「満ちる」でも書きましたが、そのコートがいかに泥んこまみれのコートであったとしても、光の子として、天国のプリンス、プリンセスとして輝いて生きるとき、人間としてこの世に生まれさせてくださった神様に感謝せずにはいられなくなります。
 信仰によって事業を営むということは、この泥んこまみれのコートのように、ドロドロした商売根性をむき出しにしてくる、ライバル会社との攻防をも信仰によって突破するという、まさに、闇の中で光り輝く「光の子」としての生き方であり、私にとっても、まことに学ぶべきものが多くあったのです。
 
 「人として人の中で光の子として輝く」ための出発に際して、父は「人間誕生」という文章を書いています。
 「世間の人と同じコートで受肉して生きる」
 この時の父の決心は、紛れもなく神様のお導きでありご計画であったのだと、教会堂を見ながら感慨にふけります。「事業を生かす信仰」という冊子もこのころ書いたものです。もし、この時父が主のご意志に従っていなければ、今の会堂は建っていません。
 
 主イエス・キリストの福音がこの世の中で伝えられ、み言葉が光り輝くために、私たちもこの世の中で光の子として光り輝こうではありませんか。主に従う時、必ず主が私たちを輝かせてくださいます。
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by mitiru-takae | 2013-10-04 12:01 | 満ちる | Comments(0)