<   2013年 08月 ( 4 )   > この月の画像一覧

目を上げよ 2013.8.18

目を上げよ
 
 悲しい人、淋しい人、苦しい人。
 目を上げよ。
 自分を世界にただ一人しかいない貴重な人間だと悟れ。
 無生物の時代から、ここまで生きてきたエリートなのだと自覚せよ。
 偉大なる「我」に目ざめよ。
  <卓話寸言>(1972.7.22「大分通信」No.7より)
 
 これは「日岡だより」第603号に乗せた父の一文です。「偉大なる『我』に目覚めよ。」なんと歯切れの良い文章なのでしょう。私はこのころの父の文章が大好きです。父が50才くらいの時でしょうか。信仰に商売に燃えていた若い父を思い出します。
 
 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
                  <詩篇121:1,2>

 
 苦しくて、悲しくて、平安を得ない時、また悲しみと、淋しさに人知れず涙する時、人の心は自分ではなかなか元にもどすことができません。ましてや自分を価値のあるものだなどとは、思いもしません。それは自分で自分の心に悲しい、苦しい、淋しいといい続けているからです。この告白が長ければ長いほど、人の心は告白したとおりの自分をつくりだしていき、自力ではなかなか戻ることが難しいのだと、勝手に決め付けてしまいます。
 負の告白を、喜びの告白に変えねばなりません。どこかで、思い切って告白をかえるのです。「イエス様、全てのことを感謝します」「イエス様、ありがとうございます」「イエス様、あなたの祝福をありがとうございます」。このようにたとえ本心でなくても、空を突くような言葉に思えても、口を開いた時のはじめの一言を、とにかく変えてみるのです。
 頭をあげて、目を上にあげる。たすけ主に目を向ける。イエス様を思い出す。言い方は色々ですが、みな同じことです。誰に助けてもらうのかを見極めなければなりません。イエス様しかいないじゃないですか。イエス様の助けを現実のものと受け取ってしまう。そのための信仰の行い第一歩、それが始めの一言「イエス様」ですね。
 
 「目を上げる」とはイエス様を思い出す、イエス様を信じている私を思い出す、つまり心の、魂の目をイエス様に向けることです。
 必ず私たちの主であるイエス様が慰め、力づけ、抱きしめてくださいます。
 イエス様こそが、共に悲しみ、共に喜んでくださる、真実なお方です。
c0265111_9161250.jpg
c0265111_9134051.jpg
[PR]
by mitiru-takae | 2013-08-28 09:14 | 満ちる | Comments(0)

神様の恵みは消耗しない 2013.8.11

神様の恵みは消耗しない  
 
 わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。<申命記29:5>
 
 着物や、靴などの消耗品が古びなかったというのはとても素晴らしい、驚きだ! 何てことだろうと思ってしまう。現実にお気に入りが何時までも古びず使えるとしたら、こんな嬉しい事はない。
 ただし、いくらお気に入りでも40年間古びず同じ服を着ていたらどうだろうか?同じ靴をはいていたら?毎日同じ食べ物を食べていたら?
 別のものが欲しい、あれがいい、これがいい・・・と、満ち足りていても人は不足を言いやすい。
 しかし、どん底の死を目の前にしている時は、この「古びず」がとても感謝に思える。食べられるだけで有り難いのだ。
 
 罪に対する危機感が、今の私たちには薄れている。イスラエルの民と同様に!
 人間の豊かさを求める心は限りがない。この心を悪用してサタンは今日も私たちにささやく。「わたしに従えばもっと良いものをあげるよ!」と。
 同じ豊かさを、クルリと方向転換をしてイエス様に求めると、このサタンによる貪欲から解放される。すると心が堕落しなくてすむようになる。私たちを生かす中心の霊がイエス様の聖さで被われてしまうからだ。
 神の国では古びないどころか、人間の思いそれ自体がまったく地上と違う。
 
 イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。<マタイによる福音書22:29,30>
 
 私たちは今の現実のなかでこの神の国の前味をあじわうことができる。ほんの少しイエス様にフォーカスするだけで、天国は私たちのものとなるのだ。天国は私たちの中に飛び込んでくるのだ。
 ほんの少しの行いを大切にしよう。心も決して滅びることがない、古びることもない、イエス様と共に居る御国を、今実感したいと思うのである。
 的が外れかかっても、何度でも、あわせてみよう。
 必ず、天国は飛び込んで来る。イエス様がきてくださること間違いなし。
c0265111_16211024.jpg
c0265111_1622691.jpg
[PR]
by mitiru-takae | 2013-08-20 16:21 | 満ちる | Comments(0)

福音の只中で生きる 2013.8.4

福音の只中で生きる 

 ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである<コロサイ1:23>

 私たちが聞いた福音は、今まで、罪のために敵対していた神様との和解をもたらすものであった。私たち人間の犯した罪は、実に、神様の創られたもの全ての呻きの対象であり、私たちが神様と和解することを、そして神の子とされることを今か今かと、待ち望んでいるというのだ。<ローマ8:23参照>
 望まれているのだから凄い。そんなことを考えていると、周りのものがいとおしくなってくる。
 喜ぶべきかな、今、私たちは、イエス様の福音のただ中に居る。この福音の望みから離れないように、またサタンに引っ張られて、向こうの敵対する側に移行しないようにしっかりと信仰に踏みとどまらねばならぬ。
 「いいえ、パウロならこそ、強いから踏みとどまれるかもしれない」などと、まるで自分は今にも負けてしまいそうな、そんな発言はサタンの思う壷! 聖霊様は何時もそばにいて、このイエス様の福音から、離れることがないように励ましてくださる。大丈夫だ!

御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 <ローマ8:26>

 福音とは反対に、人間のつくる法律は、人間をかえって滅びに導く事さえある。
 敗戦後の日本の法律など、学んだわけではないし、私には良くわかってないのが本音だが、父がよく言っていた憲法前文なるものをよんでみたりすると、戦勝国に介入されたであろう憲法などとんでもないなと思ってしまう。
 しかし、神様はあえて私のためにそれをご計画に入れる。日本のためだとか、誰かのためだとか、それだけではない、私のためだ。そして気づかされる。
 「私にはイエス様の愛で被われた素晴らしい律法がある」
 毎日をごく普通に、主とともに生き、普通に悪と戦い、自分の事のように、周りの人を見て思いやることが出来、人と共に居られる。主の愛の律法がなければ、この「普通」ができない。キリストの福音のなかに居さえすればこの「普通」がいとも簡単に出来るはずだ、いや出来るのだ。
 福音の望みをすでにいただいているからだ。望みが私の中で現実となる。福音から外れると、「普通」は苦痛に変わる。同じ現実でも大違いだ!
 イエス様の福音のなかで皆と楽しく過ごそうではないか! ハレルヤ!
c0265111_1623769.jpg
c0265111_816326.jpg
[PR]
by mitiru-takae | 2013-08-14 08:15 | 満ちる | Comments(0)

最高の場所 2013.7.28

最高の場所 

 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい―――しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 <ガラテヤ人への手紙5:19~23>
 
 肉の行いと霊の賜物、御霊といえば神様から来る霊とわかる。しかしどうだろう、霊といってしまうと何だかドロドロしたものを感じてしまう。それに最近はやたらスピリチャルばやり。魂の奥底をあれこれかき回す、引っ張り出す。心はころころ転がされてしまうのだ。たまったものではない。
 何か、見えないものが見えたり、特別な身体に感じるものがあって、また、癒しなどというとイエス様のように身体から力が出ていった…なんてことがしばしばあったり。
 確かにそういう事もあるのだろう、しかし、あの死人を生き返らせるガジマ牧師でさえ、「その時は普通です、何にもありません!」と言っていた。
 御霊によって生きるとは、イエス様の命の権威の中で生きるということだから、おのずと実は実って来るものだと思う。しかし肉はどうだろう。
 御霊によって生きるのが神様の権威の中で生きるということならば、肉によって生きるというのは、まさに、サタンの権威の中で生きるということだ。
 よく人はいう。「人間らしく、泣いたり怒ったり、ありのままで生きよう」と。
 その通りだ。しかしクリスチャンはちょっと違う。イエス様の権威の中で、イエス様のみ前で、泣き、叫び、怒る。
 「えっ!怒っていいの?」
 つまり、土台が違うのだ。基になる、私たちの立っている場所が違うのだ。
 この世のなかでも、立ち位置がちょっと違うだけで、自分にとっての評価はガラリと変わって来る。できることなら優位にたちたい、多くの場合人々はそう思うであろう。
 ここがポイントだ。
 私たちクリスチャンが立つ場所。立っている土台、それはイエス・キリストだ。私たちにとって、泣こうが、怒ろうが、そんなことが問題なのではではない。
 神様の側に居る―――このことが重要なことなのだ。
 神様の権威の中に立つと、私にとっての最も優位な立ち位置がわかる。これこそ聖霊さまの働きだ。聖霊様によって私たちは、この世で最も素晴らしい、最も優位な場所に立つことができるのだ。
 それはゴルゴタの十字架の上、また復活の日の墓の前だったり、あのペンテコステの聖霊の降(くだ)った、まさにその時であったり、イエス様と共にいる場所はいつだって最高の場所なのだ。
 この場所はサタンに勝利するための一番優位な場所なのだから。
 アーメン!
c0265111_21473078.jpg

[PR]
by mitiru-takae | 2013-08-03 21:46 | 満ちる | Comments(0)