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ベテスダの池 2013.7.21

【牧師按手礼式を終えて】
 ハレルヤ!主に賛美をおささげいたします。
 兄弟姉妹方の貴いご奉仕を主の御前に喜び、心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。
 120人からなる大聖会となりまして、永井明先生主導のもとに素晴らしい按手礼をいただくことができました。出席くださいました牧師先生方の按手を受けながら、何度も何度も感謝と喜びで満たされました。
 何といたしましても一番の立役者は、キリストの福音大分教会に所属する諸兄姉であったと思います。これからもイエス様のため、教会のため、共に祈り働いて行けますように、また私のため祈り支えてくださいますようにお願いいたします。
           主に在って心より感謝をもって祈りつつ。
 

ベテスダの池 
 
 世の中のどのような医療機関も、癒しの施設も、真の癒し主であるイエス様が介入してくださらなければ、それは空しいものです。イエス様のたった一言「なおりたいのか」、このお言葉に応答するならば「すぐに癒され、床をとりあげて歩く」という奇跡が起こります。
 
 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕<ヨハネによる福音書 5:3、4>
 
 このおかしな古代ローマの賽銭集めの施設、ベテスダの池について、オリーブライフ7月号のなかでピーター・ファスト先生が書いていますが、先生いわく「天使がエコヒイキをするのか?早い者勝ちで癒すのか?」ということなのです。
 
 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。 <ヨハネによる福音書 5:6,7>
 
 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。 <ヨハネによる福音書 5:8,9>
 
 主の癒しは、主の言葉を発したその時に成就します。主の意思があるところに奇跡が起こるからです。
 安息日は、特に、「主の日」ではありませんか。
    ハレルヤ!
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by mitiru-takae | 2013-07-24 03:17 | 満ちる | Comments(0)

主に栄光あれ! -牧師按手礼式にあたって- 2013.7.14

主に栄光あれ!  
        -牧師按手礼式にあたって-
 
 ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立
っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向
かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せ
よう」。<ゼカリヤ3:3,4>
 これは権勢によらず、能力によらず、私の霊によるのである。<ゼカリヤ3:
6>

 
 わたしたちの主の恵みと憐みを心から感謝し、御名を賛美いたします。明日
の按手礼式をなにより喜んでくれているのは、イエス様は勿論、天のイエス様
の懐に抱かれている父ではないかと思っています。
 
 「義人よ、今だ。立ち上がれ。遅れを取るな。主の時だ、戦いの時だ。主に
福音ののろしを上げるのだ。」―――「大きな変化が私の魂に起こりつつあるな、
と思う。―――神様、ありがとうございます。今後、素晴らしいことが起こる
でしょうね。―――いやいや、寝てられませんねえ。神様、感謝します。一切
が変わります。―――」
 
 父の召される一ヶ月ほど前の日記からの抜粋ですが、大変化の起こる預言を
主に頂いていたのですね。これを読むとまさか大変化が【一粒の種】としての
自分のことだとは夢にも思わなかったでしょう。
 信仰を求めて一直線だった父と、その周りに集まっていた求道者の皆さんを、
まだ小学生であった頃から、わたしは、普通の生活や仕事やお金のこととは別
に何を一生懸命求めることがあるのかと、不思議に思っていました。私は自分
の思うようにならない悲しみや憎しみを取り去ってくださる神様がいることさ
えまだわからずにいたのです。
 いくら反抗してみても、両親に反発して家を飛び出してみても、この世の楽
しみを追ってみても、何の解決もなく、ある日、本当にある時です、放蕩息子
のお話のように「父の家に帰ろう、私には信仰が必要だ」と本心に立ち返るこ
とができたのです。とことん反抗して泥のなかをはいまわるのも自我の強い私
にとっては神様の恵みの御業があらわれるためだったのですね。両親と共に印
刷の仕事をしながら、二人の信仰を学び、励まされて今日まで来ることが出来
ました。
 父の召天後、教会をどうするかにあたって、色々なアドバイスを頂いたり、
兄弟で話し合ったりいたしました。が、どうしても私には父の建てた会堂と(い
つかは崩れ去るものですが)、父を慕い信仰を求めてくる皆さんの顔が共にきっ
ても切れず離れず、一晩主の御前で泣き明かしました。
 そして、父の声を聞きました。「孝枝、簡単なことだよ!やりなさい!イエス
様の福音が後押ししてくれるよ!」。私はここで初めて教会を継続するという神
様からの召命をいただいたのです。
 考えてみると、祖父太重、大伯父徳太郎、そして父義人とイエス・キリスト
の信仰を受け継いでいけることは本当に素晴らしいことです。私の年は世の人
たちが定年といって仕事をリタイヤする65歳、この時期にこのような形で主
のために働かせていただく、不思議でなりません。しかし、父の90歳にはほ
ど遠いので(笑)まだまだ主の助けによって進ませていただけるでしょう。
 
 立て、さあ、ここから出かけて行こう。<ヨハネによる福音書14:31>
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by mitiru-takae | 2013-07-17 11:50 | 満ちる | Comments(0)

告白(み言葉)の力 2013.7.7

告白(み言葉)の力  

あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。
あなたは右に左にひろがり、あなたの子孫はもろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たすからだ。 <イザヤ書54:2、3>


6月30日(日)礼拝賛美のなかで、このイザヤ書のこの所の賛美を久しぶりに大声で歌いました。
み言葉がそのまま歌詞になっていると(賛美の歌詞は新改訳だと思います)何だかとても力強い、そんな感じがします。およそキリスト教の礼拝とも思えないほどの(笑)賑やかさです。ダビデの賛美もこんなだったんだろうなあと想像していましたら、イスラエル旅行をしたときの父の姿を思い出しました。

たて琴を持って扮装した現地の男性のまねをして横で踊っていた、写真にも撮って帰ったあの姿です。今思えば本当に愉快な父でしたね、よく笑わせてくれました。

ところでこのみ言葉は、妹が賛美のあとで言っていましたが「ヤベツの祈り」に似ています。肉的にも、霊的にも私たちは天幕を広げる必要があります。「惜しむことなく」です。杭を強くすることによって、私たちは動かされません。

しかし、これを実行することが出来るでしょうか。実行出来さえすれば、私たちは右に左に増え広がるはずですが・・・。

「ヤベツの祈り」と、この「イザヤ書54:2,3」の似ているところ、いえ同じところがあります。
それは、このみ言葉そのものが神様のみこころであるという点です。だからこそ力強い、だからこそ叶えられる、神様の認めてくださる祈りなのですね。

そこでよく父の言った行いの実践です。
私たちは何を行っていくのか、というと「告白」なのです。T.L.オズボーンの「みことばの力」ではこの告白を所有しなさいと言っています。いえ、「告白がみ言葉の所有をもたらす」といっているようです。
また告白は神様のみこころに同意すること、口による信仰の証だといっています。
最近は本当に祝福のお祈りをお薦めしていますが、祝福を告白する時、イエス様の祝福のお言葉がそのまま私のなかで自分の所有物となるのですね。これはすごい福音です。 

あれ廃れた町々を多くの神の民で満たすことの出来るお方、イエス様のお言葉を告白し、私のものとならしめていただきたいですね。

わたしの心の中をみ言葉でいっぱいに満たすことの出来るお方の御名を今日も、明日も、いえ今すぐに告白したいと思います。ハレルヤ!
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by mitiru-takae | 2013-07-17 11:44 | 満ちる | Comments(0)

天国での驚くべき祝福 2013.6.30

天国での驚くべき祝福
 
 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。<ルカによる福音書 6:23>
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 教会の談話室(仮称ですが最近福音食堂という呼び方が聞こえてきました)にある本箱を整理していましたら、あのヤベツの祈りを書いたブルース・ウィルキンソンの「神からの報い」という本が出てきました。
 
 この本はとてもお世話になった故K兄の遺品で、ご遺族の方から贈られました記念蔵書の中の一冊です。表紙裏に以下のような父の文章がありました。
 「K兄は、私の妻が肺がんを病んだ時、東京板橋の誠志会病院が、院長先生もクリスチャンだし、その免疫療法が信用できると、自分で東京まで行って調べてこられて確信をもって私の妻を誠志会病院に送ってくださった。その旅費も入院費までも負担してくださったものです。」【2005/12.25釘宮義人記】
 このK兄は、信仰はもちろん素晴しいし、なにより事業家としてもとてもすごい方でしたので、父は色々な話を聞くのがとても楽しかったようです。
 そんなK兄の残してくださった中の、この一冊の本も談話室のあの大きな本箱の中で埋もれていました。
 
 神様のなさることはいつも素晴らしいので、この本もきっと【神様の仕業】だな?と思いながら少し読んでみました。
 まず、私たちは永遠をどうすごすのか?それを決める鍵は二つあり、第一は信仰、第二は行いとありました。
 信仰はわかります。しかし、行いは?善行をせよ?クリスチャンとして、それにふさわしい生活をせよ?伝道をせよ?などなど、普通なら読みたくないものかもしれません(苦笑)。
 イエス様に従えばこの世の事はすべて添えて与えられるものですから、私たちの日々の行いはイエス様につながっていさえすれば、何も問題ありません。
 ただ、私たちにはしなければならないことがあるのです。
 「神が私たちに報いてくださった宝を、天に積みなさい」
 ブルース・ウィルキンソン流に言うと、「住所変更をして、自分が住む前に、荷物を天の家に向け発送しなさい」
 それが、次のおことばです。
 
 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 <マタイによる福音書 6:20>
 
 神様が下さる報い、私たちがいただく宝とは、一体なんでしょうか。
 私はこう思います。それこそ「天国での驚くばかりの祝福」、私たちの只中にある天国の祝福に違いありません。この世の君との戦いの中で勝ち取っていく小さな勝利のひとつひとつが天国で大きく膨らんでいるのでしょうね!
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by mitiru-takae | 2013-07-10 00:14 | 満ちる | Comments(0)

神様の大傑作 2013.6.23

神様の大傑作 
 
 日本の四季って神様の創造の業の中でも大傑作ですね。今の時期、梅雨の女王は雨で膨らんだ深いみどりの苔でしょうか。
 聖霊様に満たされた状態ってこんな感じかな(緑がより一層深くなってどこを触っても水に浸されていて)、清らかな水に指が潤されるようで…、といっても実際、苔にさわったことはないのですが、どうなんでしょうか。
 
 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 <ローマ人への手紙 3:22>  
 
 すべての創られたものの中でも、私たちは神様の大傑作で、それに対する神様の愛は、何の差別もないと言っています。信じる人全てにもたらされる神様の愛は十字架という形で顕されました。
 割礼を受けるより前にただ信じることによって義とされたアブラハムのように、わたしたちを贖いとってくださったイエス様を信じるだけで、義としてくださる神様に感謝、感謝、大感謝です。
 しかし、私たちは自分を、多分、それほどまでに罪深いなどとは思ってはいないでしょう。罪が死をもたらすといっても、よくわからないのが世の普通の考え方でしょうか。
 
 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており<ローマ人への手紙 3:23> 
 
 この聖書のお言葉は初めて聞くとびっくりします。「わたしに何の罪があるというの?」と憤ってみたり、「神様はお見通しだ」と恐くなったり・・・ひとそれぞれに色々な思いがはたらきます。
 イエス様は「神の栄光を受けられなくなる罪」を犯したと言っています。この罪は、どんなにこの世の法律を守っても、善なる行いをもってしても【義】とはされないものなのです。
 この罪はある時聖霊様によって強く示されることがあります。顔を上げられないくらい罪の重さにペシャンコになるときもありますが、この時は後で思いを遥かに越えるほどの喜びと、平安が与えられるようです。安心ですね(笑)。
 ただ、信じるだけで、ただ、ただイエス様の信仰によってのみ【義】とされるものだとパウロの強い口調で聖書はいっています。
 
 清流のなかの「こけ」や魚が水に漬かっているだけで命を得ている姿を思い浮かべるとき、わたしたちもイエス様の信仰の水の中にいつも浸っているものでありたいなあ、どうすればいいのかなあと目をつぶります。笑いが胸の奥のほうから起こってきます。逆らわないでそのままニコッとしてみます。もうとまりません。
 「どうすればいいのかなあ?」とイエス様の前に心を開くと聖流がやってきました。
 
 毎日、嬉しい時も、辛い時も、笑って、周りのすべてのもののご祝福を、イエス様にお祈りし続けましょう。

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by mitiru-takae | 2013-07-03 10:37 | 満ちる | Comments(0)