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父の祝福 2013.6.16

父の祝福 
 
 あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果たそう。 <創世記26:3>
 
 イサクは父アブラハムから受け継いだ神様の祝福を長子であるエサウではなくヤコブに与えてしまいました。この祝福は半分に分けたり残しておいたりは出来ませんでした。ですから、長子の特権を軽んじてしまったエサウの手には入らなかったのです。
 
 わが子よ、今となっては、あなたのために何ができようか <創世記27:37下>
 
 戦後の日本の父親のイメージは、とにかく一日中家にいない、居るのは寝ているときくらいというものです。それほど企業のため、日本という国のためよく働いていたのですね。
 しかし、たとえいつも父は不在・・・といえども家庭の中に『父』というものがしっかり存在していてはじめて家庭が成り立っているというか、父が家庭の要をおさめているということが大切なのですね。
 実際父の存在は子供たちにとってとても精神的に必要なものです。しかし父親という『存在』そのものが肉の父ではないということもあるでしょう。母や兄、姉、その他色々な父としての役割果たしてきたものがあったのではないでしょうか。
 家庭というのは、私たちにとって本当に深い心の絆で結ばれている心の共同体とでもいうものでしょうか。いえ、それ以上の血によって結ばれた霊の共同体でもありましょう。
 
 同じように教会もイエス様の血潮により一つとされ、父に見守られている、聖霊による命の共同体ですね。イエス様によって私たちすべてが祝福を受けられるようになりました。
 地球上に人間が60億、70億いようとも、信じるものは皆、父なる神様の長子、つまり長子の祝福と特権が与えられているのです。エサウには残されていなかった父の祝福が今ではすべて私たち信じる者に与えられているのです。ハレルヤ!
 
わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです<ヨハネによる福音書17:10>
 
 今日は野にあって、明日は炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたにそれ以上よくしてくださらないはずがあろうか      <ルカによる福音書12:28>

 
 わたしたちの「父なる神さま」に大声を上げて感謝!賛美!をささげたい。そんな嬉しい心いっぱいで今日も教会家族が集います。
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by mitiru-takae | 2013-06-19 11:16 | 満ちる | Comments(0)

十字架の祝福 2013.6.9

十字架の祝福 
 
 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。<コリント人への第一の手紙1章18節>
 
 神様が天からくださる恵みは尽きることがありません。
 私たちが求め、受け取るならば、無限の祝福がわたしのものとなります。
 しかし、わたしたちはなかなかこの無限の祝福を受け取っていないのだと、『ヤベツの祈り』(ブルー・ウィルキンソン著)は言っています。
 実際わたしたちはこの無限の祝福を信じていないのでは?と思ってしまいます。十字架の言葉が信じないものにとっては愚かな、本当に神の栄光のかけらも無いように見える、ただ悲惨なだけの歴史的事実、そう!、そういうイエスという偉人がいたんだよとしか思っていない?というように。
 しかし、十字架はこのような愚かな考えであった私たちの、実は最大の祝福なのであり、恵みであるのですね。また奇跡が起こる可能性なのです。なぜならこの愚かな考えをしていたわたしが、イエス様を神と認め、十字架のまことの意味を知るようになるからです。
 
 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。<ガラテヤの信徒への手紙3章 13節>
 
 十字架はイエス様にとっては完全に「呪い」を受けることでした。
 わたしたちの贖いのため、神様がとった最高の手段はご自身を十字架につけて呪われるものとなることでした。
 そして、この十字架の呪いはわたしたちの祝福となったのです。一人のひと、完全なる人間イエスがイエス・キリストとして私たちに贖いの祝福をもたらしてくださったのです。なんという恵み、なんという愛でしょう。
 イエス様を信じるということは、十字架を私への祝福として受け取ることです。
 信じない人にとっては十字架は呪いのままです。信じられない、愚かな出来事でしかないのです。
 
 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。<ガラテヤ人への手紙6章14節>
 
 イエス様の十字架は、私たちをこの世の悪しき支配から解放してくださる無限の祝福であり、たった一つの方法です。
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by mitiru-takae | 2013-06-14 02:00 | 満ちる | Comments(0)

神様の祝福 2013.6.2

神様の祝福 
 
 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。<Ⅰペテロ3:9>

 以前父が「とりなしは祝福の挨拶をおくること」と言っていました。毎朝のとりなしの祈りの時一人ひとりに祝福の挨拶を贈るんだ(送るんだ)といっていましたが、最近は本当に祝福に勝るものはないと知らされることが多く、又その証しや結果が実りつつあるようです。まさに私たちの教会は神様から、釘宮義人牧師から祝福を受け継いでいると言えます。
 長い長いクリスチャン生活を送っている人も、イエス様のお名前を知ったばかりの人も、笑いと同様に誰にでも安心で有益なお勧めは、やはり「祝福の祈り」です。
 私たちが問題などの解決のため祈ろうとする時に、私の思いではなく「主よあなたの御心を教えてください」とよく祈ります。そう祈りながら実は心の中では自分の義を押し通していることがしばしばなのです。しかし私の求めを聖別してくださるのも主です。
 まず、私の善悪(ブルース・ウィルキンソン著【ヤベツの祈り】でいうなら自前の武器)を捨てて祈る、ですが、簡単のようでこれがなかなか出来ないことの一つなのですね。
 この私たちが持っている善悪(自前の武器)なるものは、財産、能力、過去の経験、訓練してきたものなど、とにかく捨てがたいものばかりです。しかし、これが一番先に頭をもたげてくるとそこからは進むことが出来ないのです。何故なら、神さまの力は私の弱いところに完全にあらわれる<Ⅱコリント12:9>とあるからです。
 たとえ捨てられなくても、ここぞとばかり、神様は弱る時【神様の時】を造ってくださいます。人の力の及ばない時を下さるのです。この時がチャンスです。

 これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。<ゼカリヤ書4:6>

 神様の霊によって、私の思いではなく神様の最善の業が求められ、叶えられる。これこそが祝福の祈り、釘宮義人牧師が言う祝福の挨拶もそうです。自分で捨てられもしなかった自分の宝が、いつの間にか神様の宝とすり替わっている…、本当にある一人の人の部屋から起こる小さな祈り、けれども大きな祝福の始まりだと思うのですね。
 「祝福をもって報いる」これは神様のなさることです。出来ない、言えない、悔しい、ではなく、「○○さん、もしくは○○に祝福がありますように」と祈りましょう。告白しましょう。簡単です。言うだけです。「何かをせよ」とはいっていません。あとは神様の祝福が私たちを後押ししてくださいます。気がつけば主が共にいて私を守ってくださっていて、私の色々な地境が広がっていくでしょう。
 「ヤベツの祈り」は究極の祝福の祈りのようです。
 
 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。<歴代志上4:10>
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by mitiru-takae | 2013-06-06 23:17 | 満ちる | Comments(0)