からの器を満たしていただく
彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。<マタイ2:9~11>
彼ら(東方の博士たち)は、ある星に気づきました。救い主に出会うことが出来る導きの星です。
この星は、彼らを幼な子のいる所まで行き、その上にとどまりました。これを見て、博士たちは非常な喜びにあふれたと聖書は書いています。
イエス様がそうであったように、神様は、ご自身が創られたものにお命じになることが出来ます。神様による超常現象は理屈では説明できません。何故って神様のなさることだからです。
しかし、私たちには想像が出来ます。
もし、私を救い主の御前に導こうとするならば、聖霊様はあらゆる手段を使って、私に知らせてくださいます。博士たちが見た星のようにです。
次に博士たちのプレゼントを見てみます。
博士たちはとても偉い学者たちで、資産もあって、それでとても高価なプレゼントを主に捧げることができたのかもしれません。
でも、もし博士たちが、全財産をプレゼントに換え、一年や二年もかかってらくだに乗って旅をしてきたとするならば、その費用は相当なものであったと思われます。
今ならば飛行機や、新幹線のように早い乗り物がありますが、イエス様のころにはいくら早くても、馬くらいであったでしょう。
レプタ2枚を献金した婦人をイエス様が「彼女は全財産を入れたのだ」とお褒めになったことがありました。
もしかすると、この博士たちのプレゼント、旅行費用は彼らの全財産であったかもしれません。
主を礼拝し、捧げた彼らにとっては、他に持っているものは帰りの費用以外何も残っていなかったかもしれないのです。
私たちがもし、黄金、乳香、没薬なんて考えられないからっぽの土の器だとしても、レプタ2枚を捧げるということは、からの器そのものを御前に置くことです。私のからっぽの心は、何より貴いイエス様の愛で満たされることでしょう。
すると、たとえ捧げる物が何もなかったとしても、主の前にある空っぽの心ほど高価なものはないかもしれません。(た)