どんなに小さなものでも 2015.4.26

どんなに小さなものでも
 
 五羽のすずめは2アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。<ルカによる福音書12:5、6>
 
 マタイによる福音書では二羽と書かれています。多分犠牲に使われるのは二羽なのかなと思いますが五羽で2アサリオン(600円くらい)であったのです。
 またレビ記を見てみると、清めの儀式のために使われる清い鳥のことを書いている箇所があります。ちなみにすずめは汚れた鳥には入っていませんから清い鳥ですね。
 
 祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、―――その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、その生きている小鳥は野に放たなければならない。<レビ記14:1~7>
 
 清めのためにささげられる小鳥のうち、一羽は殺され、生きている鳥はその殺された鳥の血潮に共に浸され、その後、野に放たれるというのです。
 他の箇所で2頭のやぎを会見の幕屋の前に立たせ、やぎのためにくじをひくところがあります。「主のためのくじに当たれば罪祭としてささげ、『アザゼル』のためのくじに当たった羊は荒野に送る」と言う記事があります。(レビ記16章参照)
 「アザゼル」の持つ意味はいろいろあるようですが「アザゼル」に送れば「鳥(汚れや罪)が二度と戻ってこない」的な意味があるようです。まるで清めのダメ押しのようです。旧約聖書を読んでいくと、新約聖書に書かれていることがより深められてきます。
 
 どれだけ小さな鳥、やぎ、そして牛や羊が、人間の罪のあがないや清めのために犠牲としてささげられていったのでしょうか。
 この犠牲の頂点に立っておられるのがイエス・キリストです。イエス・キリストのただ一度の十字架によるあがないの血潮こそが私たちが浸されるべき血潮なのです。私たちが生きて放たれるのは「アザゼル」ではなく「神の国」なのです。
 
 あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である<ルカ11:7下>
 
 地上にあるどんな小さなものでも、創造主である神様にとっては宝です。どんなに理不尽だと思えることも、自分に何かをする力もないくらい、弱く小さく感じるときも、自分の苦しみが世界で一番だと思える時でも、たとえあなたが気づいていないとしても、イエス様は確かにあなたを宝として愛おしく思ってくださっています。
 私がどんなに小さなものであってもイエス様にとっては高価で尊い、価値あるものなのです。(た)
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by mitiru-takae | 2015-04-30 08:11 | 満ちる | Comments(0)
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