最高の場所 2013.7.28

最高の場所 

 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい―――しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 <ガラテヤ人への手紙5:19~23>
 
 肉の行いと霊の賜物、御霊といえば神様から来る霊とわかる。しかしどうだろう、霊といってしまうと何だかドロドロしたものを感じてしまう。それに最近はやたらスピリチャルばやり。魂の奥底をあれこれかき回す、引っ張り出す。心はころころ転がされてしまうのだ。たまったものではない。
 何か、見えないものが見えたり、特別な身体に感じるものがあって、また、癒しなどというとイエス様のように身体から力が出ていった…なんてことがしばしばあったり。
 確かにそういう事もあるのだろう、しかし、あの死人を生き返らせるガジマ牧師でさえ、「その時は普通です、何にもありません!」と言っていた。
 御霊によって生きるとは、イエス様の命の権威の中で生きるということだから、おのずと実は実って来るものだと思う。しかし肉はどうだろう。
 御霊によって生きるのが神様の権威の中で生きるということならば、肉によって生きるというのは、まさに、サタンの権威の中で生きるということだ。
 よく人はいう。「人間らしく、泣いたり怒ったり、ありのままで生きよう」と。
 その通りだ。しかしクリスチャンはちょっと違う。イエス様の権威の中で、イエス様のみ前で、泣き、叫び、怒る。
 「えっ!怒っていいの?」
 つまり、土台が違うのだ。基になる、私たちの立っている場所が違うのだ。
 この世のなかでも、立ち位置がちょっと違うだけで、自分にとっての評価はガラリと変わって来る。できることなら優位にたちたい、多くの場合人々はそう思うであろう。
 ここがポイントだ。
 私たちクリスチャンが立つ場所。立っている土台、それはイエス・キリストだ。私たちにとって、泣こうが、怒ろうが、そんなことが問題なのではではない。
 神様の側に居る―――このことが重要なことなのだ。
 神様の権威の中に立つと、私にとっての最も優位な立ち位置がわかる。これこそ聖霊さまの働きだ。聖霊様によって私たちは、この世で最も素晴らしい、最も優位な場所に立つことができるのだ。
 それはゴルゴタの十字架の上、また復活の日の墓の前だったり、あのペンテコステの聖霊の降(くだ)った、まさにその時であったり、イエス様と共にいる場所はいつだって最高の場所なのだ。
 この場所はサタンに勝利するための一番優位な場所なのだから。
 アーメン!
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by mitiru-takae | 2013-08-03 21:46 | 満ちる | Comments(0)
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