十字架の祝福
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。<コリント人への第一の手紙1章18節>
神様が天からくださる恵みは尽きることがありません。
私たちが求め、受け取るならば、無限の祝福がわたしのものとなります。
しかし、わたしたちはなかなかこの無限の祝福を受け取っていないのだと、『ヤベツの祈り』(ブルー・ウィルキンソン著)は言っています。
実際わたしたちはこの無限の祝福を信じていないのでは?と思ってしまいます。十字架の言葉が信じないものにとっては愚かな、本当に神の栄光のかけらも無いように見える、ただ悲惨なだけの歴史的事実、そう!、そういうイエスという偉人がいたんだよとしか思っていない?というように。
しかし、十字架はこのような愚かな考えであった私たちの、実は最大の祝福なのであり、恵みであるのですね。また奇跡が起こる可能性なのです。なぜならこの愚かな考えをしていたわたしが、イエス様を神と認め、十字架のまことの意味を知るようになるからです。
キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。<ガラテヤの信徒への手紙3章 13節>
十字架はイエス様にとっては完全に「呪い」を受けることでした。
わたしたちの贖いのため、神様がとった最高の手段はご自身を十字架につけて呪われるものとなることでした。
そして、この十字架の呪いはわたしたちの祝福となったのです。一人のひと、完全なる人間イエスがイエス・キリストとして私たちに贖いの祝福をもたらしてくださったのです。なんという恵み、なんという愛でしょう。
イエス様を信じるということは、十字架を私への祝福として受け取ることです。
信じない人にとっては十字架は呪いのままです。信じられない、愚かな出来事でしかないのです。
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。<ガラテヤ人への手紙6章14節>
イエス様の十字架は、私たちをこの世の悪しき支配から解放してくださる無限の祝福であり、たった一つの方法です。