回心
時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ
<マルコ1:15>
神様の時は一人ひとりにそれも私自身の時を切り裂いて入り込んでくる、そのような感じでやってきます。
神の国(天国)は自分の手で触れるくらいすぐそこにある、振り向けばそこにある、そんな感じです。
「悔い改める」はメタノイア(ギリシャ語で転回の意味)、回心だよ!悔いて改めるではなく、イエス様のほうに心を転回させるんだ!と、これまた父はよく言っていましたねえ・・・。
キリスト教(プロテスタント)でいう最初の回心は、日本の仏教や禅宗でいう悟りとは、ちょっと違うような気がします。なぜならまず神様の方へ心の標準を合わせるということが回心と思えるからです。
ですから、振り向けばそこにあり、手が届く、イエス様に標準を合わせたとたん魂に天国が飛び込んでくる。そのような始めの回心が聖霊さまの押し出すようなお導きにより、起こってくるのだと思えるからです。
神の国が近づいたので回心するのではなく、回心してイエス様に標準を合わせるので、そこに天国があるのです。
これこそが福音です。
そして、神様の時は絶妙で一人の人の転換のときを確実に示してくるのですね。苦しみの最中か、悲しみの時か、幸せの中でか、決して同じ様では来ません。
その後もまた二度、三度目の回心をするともいいます。
しかしこれは回心という言葉よりも、私は聖霊様による体験、新しく生まれる、また内在のイエス様を知る、というように一度イエス様に向き直った魂が、神様の啓示によりさらに聖められ、成長していく過程でのイエス様体験というものではないかと思います。
これが言わば悟りと言う感じだと思います。
パウロが言いました。栄光から栄光へと、キリストの似姿にかえられていく・・・。
ゆっくりの人もあれば、ものすごい体験をする人も、何度も言いますが人それぞれなのです。
一度向き直ったまま眠っている人もいるかもしれません。が、出来れば私はイエス様の共働者として、日々サタンと戦い、イエス様の証人として、毎日新しい命で生きるものでありたいと願いつつ、生かされています。