No.252 「天の神様のいうとおり」 2017.8.27

「天の神様のいうとおり」

 「どちらにするか、天の神様のいうとおり」
 子供たちの遊びの中で、鬼を決めたりなど、選択をしなければならない時、「どちらにするか、天の神様のいうとおり」と言いながら数をかぞえ、どちらかを決めたりします。
 古くから、それぞれのお国言葉で、日本中に伝っている数え歌の一種です。

ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。<使徒10:14,15,16>

 食べてはいけないものは口にしないということは、ユダヤ人にとっては、子供のころからのごく普通の習慣であったかもしれません。
 私たちも何となく行っていた習慣が、ある日突然無理やり変えられたり、できなくなったりしたらどうでしょうか。
 子供たちは平気で変えられることも、大人にとっては、とても難しいことであったりします。
 特に食べ物は、直接口に入れるものですから、気持ち悪かったに違いないですね。嫌いな食べ物でさえ、箸をつけるだけで鳥肌が立ったり、気持ちが悪くなったりとかするのですから、ペテロにとってこの汚れた食べ物は、見るだけでも嫌だし、ましてや、とても食べられるものではないのです。
 いくら神様から言われたことであっても、すなおに「はい」と言えない、私たちの頑固な心がペテロの姿にそっくりです。神様は、3度も同じことをなさったのです。

 自分の力や、経験、知識、またどんなに知恵を働かせても決められないことが人間にはたくさんあります。
 世の中や、職場のこと、育児、教育、介護など、普段の生活の中で、100%自分の持っているものを働かせて、自信をもって行えることは、そう多くはありません。
 私たちはすべての判断を、自分や周りにいる人たちとですることができるでしょうか。
 いいえ、とても難しいことだと思います。 
 それでも、決めなければならないことは、必ず起こってくるのです。瞬時の決断のよい例が、自動車の運転です。
 また育児では、子供が小さいうちは、危険がいつも隣り合わせですから、そばにいる大人の判断は、時には子供の命にかかわってきます。

 私たちをお創りになり、私たちを一番よく知っているお方が、私たちにとっての正しい判断ができる唯一のお方です。
 私たちは神様のなさることを批判したり、知らないふりをしたり、反対したりすることはできません。何故なら、わたしには今起こっていることでさえ何もわかっておらず、先のこともわからず、何もできないからです。

このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。<使徒11:17>

 ペテロは、異邦人と言われる、自分たちとは差別していた人々に、自分たちと同じように聖霊が下るのを見てびっくりしました。
 神様の愛は大きいのです。地上のすべての人にその愛を伝えるために、イエス様を十字架につけ死なせました。
 ご自身の義を私たちの上に成就するために、ご自身を十字架につけたのですから、私たちにはこの大きな愛を妨げることなど、けっして出来ないのです。

◇父なる神様の私に対する愛を信頼し、神様をいつもほめたたえましょう。
◇イエス・キリストの「父の愛を信頼する信仰」が、私の中で命となり、私を生かし、私の信仰となって心の中で生きていることを感謝しましょう。
◇すべてのことを主に委ね、聖霊様のご意志を妨げないように、いつも祈っていましょう。

 いつでもどこでも「天の父なる神様のいうとおり」に生きて行きたいですね。 (た)
c0265111_10420756.jpg














[PR]
# by mitiru-takae | 2017-08-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.251 モーセの幕屋とイエス・キリスト 2017.8.20

モーセの幕屋とイエス・キリスト

 聖書の中でも、特に旧約聖書は、なんか物語のようで、真実味がなく、史実には関係ないことのように思われがちですが、新、旧いずれも聖書はまことに真実で、イエス・キリストについて証ししている素晴らしい、わたしたちを永遠の命に導いてくださる書物です。

しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、
かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。<へブル9:11、12>

 先々週は、韓国からお二人の先生がお見えになり、3日間にわたり、聖幕(モーセの幕屋)について、詳しくお話をしてくださいました。

 創世記から出エジプト記までは結構読み進んでいけますが、レビ記、民数記、申命記に入ってくると、一人ではなかなか読み進んでいけません。
 しかしこのモーセ五書と言われるところを読んでいくと(旧約聖書全体がそうなのですが)イエス様の言動がよくわかってきます。

 今回は特にモーセの幕屋について、学んでいくことができました。
 ここにすべてを言及するにはあまりにも膨大な量と重さです。また事あるごとにお話ししていきたいと思います。

 ただ、一言で言えば、モーセの幕屋は、それ自体、「イエス・キリストを顕わしたものだ」ということができます。

 私たちの命の救いに至る行程がここ幕屋にあります。
 そしてこの幕屋を創るように、すべての材料、作り方、寸法など、動かし方に至るまで決められたのは、私たちの父なる神様です。

 そして、誰でもがこのモーセの幕屋に入ることができ、罪の悔い改めと罪からの贖いが動物の犠牲をささげることによって可能であったということを知ることができます。

 しかしモーセの時代や、神殿のあった時代、またイエス様が、十字架にお架りになって大祭司の務めを終えるまでは、一般の人は犠牲をささげるところまでで、聖所に入れるのは祭司(レビ人)だけでした。至聖所に至っては年に一度、大贖罪日に大祭司が動物の血潮をもってとりなしに入ります。

 この人々の罪をとりなすことのできる方が大祭司しかいなかったとき、私たちは、罪を犯すたびに、私の命の代償がいったわけです。

 この大祭司の役目として、たった一度、ご自身の命をささげたイエス・キリストによって、今の私たちはこの至聖所に入ることができ、神様との和解どころか、顔を見て語ることができるようになりました。また、イエス様ご自身であるこの幕屋が今、信じる私たちの心の中にあるのです。

 話が難しくなりました。また続きは図を見ながら少しずつ…(笑) (た)










[PR]
# by mitiru-takae | 2017-08-26 16:41 | 満ちる | Comments(0)

No.250 終戦後72年 これからの平和をどうつくる? 2017.8.13

終戦後72年 これからの平和をどうつくる?

彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う。<エレミヤ6:14>

 私の父(故釘宮義人師)が、福岡の刑務所を出たのは、1945年1月21日だったそうだ。終戦の年のことである。
 当時、大分市内でも毎日の空襲で人々は、すごく緊張はしていたものの、それほどおびえてはいなかったと父は言う。なんと人々の心は強靭なのであろうか。
 何より、父のような若者は誰もいない(皆戦地などへ送り出されていたのである)、そんな中、残されたものは強くならざるを得ないというか、おびえていては、自分より弱いものを守ることは出来なかったのであろう。

 広島の原爆投下の日、「敵の新型爆弾で、広島は相当な被害を…」のニュースがはいった。
 その、つい前月のこと、大分市内に空襲があり、「市内はほとんどまる焼けであった」そうだ。
 にもかかわらず、「損害は軽微なり」の報道でしたから、人々は、「広島が、相当の被害を受けたというのは、いったいどのくらいの被害を受けたのだろうか」と内心おっかなびっくりしていたことだったと。
 「広島の新型爆弾はゲンシ爆弾だった、……」というデマが飛んだ。しかしこれはデマではない、ほんとうのことであった。人のうわさは伝わるのが早い。
【ここまでは2001年8月5日の週報から、父釘宮義人の文章を参考にしたものです】


 国が戦争している最中というのは、まことに「本物の平和が一体どんなものなのかさえわからない」という、人々の心が完全にマヒ状態であって、「国家権力の言うとおりに動くしかない」というのが現実でしょう。

 日本がこのような原爆という、悲惨な攻撃を受けたあと、実際の真実をゆがめた圧倒的権力者は、それに追随する賛同者の意見をも味方につけるようにして、自分たちの犯した非人道的な攻撃を「やむをえなかった」と正当化したように思えます。
 
 「主の望む平和」は、私たちの罪の中からは決して生まれてきませんし、作り出すことは不可能です。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 <マタイ5:9>

 しかし神の子にはこれができます。
 「私は神の子です」と告白できる人々は、皆、平和を創り出せる人たちです。
 
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。<ガラテヤ5:22,23>

 いまの時代、私たちはまことの平和を求め続けていかなければなりません。
 出かけて行って「戦争反対」と、命を懸けて叫べと迫られる人たちもいるでしょう。

 また私たちの目に見えないところで戦争のため、泣き、呻き、苦しみ、人間としての尊厳さえも失われ、道端の石ころの様になげすてられる尊い命のため、働いている方々も大勢いるでしょう。
 このような尊い働きのため、私たちは何をして支えていくことができるでしょうか。

 人の力は微力です。しかし、主イエス・キリストの血潮は偉大です。イエス・キリストの聖名は絶大です。イエス・キリストの愛は、すべての全宇宙の律法を完全なものとする力です。

 そのお方によって、私たちは「祈り」という最強の武器をいただいています。
 武器を取って真の平和を創るため立ち上がりましょう。アーメン! (た)
c0265111_19114358.jpg












[PR]
# by mitiru-takae | 2017-08-19 19:13 | 満ちる | Comments(0)

No.249 主の御前に心を注ぎだす 2017.8.6

主の御前に心を注ぎだす

 暑い日が続きます。皆さまお元気ですか。

 体が思うように動かない方も、少しバテ気味で、仕事がきつい方も、家で涼んで一息つくとき、「私も心を注ぎだして、良いことも悪いことも、主の御前において祈ろう」と、真剣になってみると良いなあと思いますがいかがですか?
 
しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。<1サムエル1:15>

 いつもきれいな、褒められるような心を持っているとは限らないのが私たちです。
 そうありたいとは願っていますが、ともすれば、妬み、怠惰、傲慢、自己中心な心しか持ち合わせない時の方が、多いのです。

 「ああしてほしい」
 「こうしてほしい」
 「あれは嫌だ」
 「こうあってほしい」
 自分のことも他人のことも、つまるところ、自分の欲求だらけです。

 しかしこの欲求も、切羽詰まってくると、おのずと要求が絞られてきます。本当に求めなければ生きていけないというほどのことを主が教えてくださいます。

 それは、主の側に「その場に留まらせてでも・・・あなたに伝えたい」ということが起こって来ているからです。

 このような時は、その只中ではわからない事が多いのでしょうが、「準備して祈る」時として与えられていることが次第に分かってくるものです。

 後に預言者サムエルの母となるハンナも初めは、とにかくもう一人の妻に負けたくない、「うまずめ」とバカにされたくない、といった感情や求めが強かったでしょう。

 注ぎだし、注ぎだし、出すものがなくなるほど祈っていくと、そこからが、本物。主は祈るべきことを祈らせてくださいます。

 ハンナの祈りをそばで聞いていた祭司エリにはまるで酔っているように聞こえたようですが、この祈りはどうも異言の祈りであったようです。

 私には異言の祈りについては、これが本物だ、とか間違っているだとか言えるほどわかってはいませんが、聖霊様によって与えられる祈りは、異言であり、またときに預言であると思っています。確かに神のみに通じる祈りの言葉、つまり神の国の言語があって、神のみ前で語らされるのです。

 ハンナも熱心に祈っているうち、神にのみ通じる言葉で、求めさせられていたのでしょう。そこには神が「私の意志だ、そうなれ!」と言われるご自身の御心がハンナに注がれたに違いないからです。
 
 病気、悩み、苦しみ、悲しみ、寂しさ、家族や経済についての問題など、すべてを払拭できるお方はイエス様のほかありません。
 祈りましょう! 祈りましょう! 祈って奇跡を待ち望みましょう!

 目に見える奇跡も素晴らしいですが、私の心の中に起こる奇跡はそれ以上です。 
 なかなかパウロのような劇的な「回心」はないかもしれませんが、求めてみようではありませんか。信仰の確信がシフトアップして魂にドカン!と響いてくるかもしれません。

 夏の暑さも吹っ飛ぶほどの祈りと求めを、心を注ぎだしてしてみたいですね!
 楽しみです。

ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。 <使徒9:20>

 そして力が出たら、出かけていきましょう。回心後のパウロの様に、とことん信じさせられたイエス・キリストを証しするのです。
 「イエス様こそ、神の子キリストです」 と。ハレルヤ! (た)
c0265111_19564534.jpg


















[PR]
# by mitiru-takae | 2017-08-06 19:57 | 満ちる | Comments(0)

No.248 啐啄同時(そったくどうじ) 2017.7.30

啐啄同時(そったくどうじ) 

 弟子が、今まさに悟りを開こうとしているとき、期が熟したと感じた禅の師匠が、弟子に声をかけます。

 例えば、「お~い!桶だぞ!」  「・・・」
 ではなく、「お~い、桶だぞ」 「はい、桶です!」

 絶妙なタイミングで発した師匠の声によって、弟子の心がその声にピタッと合い、悟りを得るわけです。言葉の内容ではなく、その時の弟子が即、悟り、又は気づかねば、返答できないことなのでしょう。

 いまにも生まれそうな雛が、卵の中から殻をつつく音がします。これが「ソク」らしいですね。

 その時、親鳥はすかさず、外からも殻を破る手伝いをして殻をコツコツとつつくのですが、このことを「タク」と言うのだそうです。

 禅語の教本にはいろいろなことが書かれているのでしょうが、全体はわからずとも、一つ、私の心を揺さぶるのは、この「ソク」と「タク」が同時でないと、命も危ないという、まさに絶妙な命(悟り)の生まれる瞬間だということです。

 禅語で言われる「啐啄(そったく)同時」のことはよく父が言っていたのを、思い出しますが、このタイミングが合う合わないは、神様のなさる領域です。

生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 <伝道の書3:2>

神のなされることは皆その時にかなって美しい。<伝道の書3:11>

 聖霊様は、いつも絶妙なタイミングで、私たちに語り掛けてきます。

 この地上では、すべての命が生まれるのに神様の素晴らしいタイミングがあります。

 同じように、何かが起こるときも、大なり小なり、喜びも、悲しみも、苦しみでさえも、神様の息のかかってないことは何一つ起こらないということです。

 神様の「ことば」にわたしたちの「こころ」はすぐに「はい」と答えることができるでしょうか。

御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。<使徒8:29>

 ここに出てくるピリポは使徒ではなく、伝道者ピリポと言われる、ステパノと同じく執事として選ばれたピリポのことです。

 使徒であれ、執事であれ、弟子であれ、御霊に従うことが、神様のタイミングに合わせられる一番の条件です。

道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。<使徒8:36>

 真理を本当に求めていたエチオピアの国の宦官は、ピリポと引き合わせられることで、イエス様と出会い、また、バプテスマのための水まで用意していただきました。

 こうしてイエス様の福音は、この宦官によってエチオピアの国まで拡がっていったのでしょうね。 
 このお膳立ての良さはどうでしょう。

 神様のご計画には、「啐啄(そったく)同時」の業がいたる所にあり、その御業はいつも最高のタイミングなのです。

 私たちがいつも「イエス・キリスト (御国)」を求めるならば、最高のタイミングですべてのものが与えられると言う、こんな祝福がどこにあるでしょうか。

 イエス様を救い主と信じる者こそ、この祝福にあずかるものです。(た)
c0265111_20514775.jpg














[PR]
# by mitiru-takae | 2017-07-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)