No.233 祝イースター/ 預言、それは励まし 2017.4.16

祝 イースター

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。<ヨハネ11:25>

 今年もイースターを迎え、色とりどりのイースターエッグを見ながら、「最近のゆで卵に着ける色とりどりのシールってきれいだなあ!」と感激します。30年前くらいは(古い話ですが)シールなどなくて、色粉を溶かしてその中に卵を浸けて色付けしていました。模様やみ言葉を卵の殻に書いたりして、結構大変でしたが楽しんでいました。

 その頃はCS(教会学校)も盛んで、子供たちがとても喜んでくれるのでCSの先生たちも一生懸命でした。クリスマスと並んで子供たち、また大人の兄弟姉妹方にとっても大きな楽しい教会行事でありました。

 しかし、懐かしがってばかりでは進展がありませんね。この教会に、若いお父さん、お母さんたちが溢れ、何時も子供たちが走り回っているような教会になりたいと願っています。

 「この世の中が暗く悪意に満ち、世の終わりが近い」と言っても、私たちクリスチャンにとっては素晴らしい神の国の到来が目の前なのですから、私たちも子供たちとともに喜び踊りたいと思います。

 子牛も羊も跳ね回るような楽しいイースターを過ごしたいですね。何といってもイエス様がよみがえってくださったのですから。そして、今私の中で生きて働いてくださっているのです。

 イエス様を信じる者は「たとい死んでも生きる」のです。 それは、私たちが信じているイエス様ご自身が「よみがえりであり、命」だからです。(た)

また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。<ヨハネ11:26>
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預言、それは励まし

神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた。<エズラ:5:2>

 先週は遠くアメリカのベテルチャーチからミニストリーチームが三人、二泊三日で大分に来られました。まず、到着したその日は、朝から霧が深く、飛行機二つをキャンセルされ、3時間くらい遅れてやっと大分空港に到着出来ました。夜の歓迎夕食会を大分カルバリチャーチにて過ごし、翌朝(4月9日)は、私たちの教会の礼拝に来てくだいました。

 思いもよらず、大笑いをするメンバーでしたので、いつもの私たちの教会での大笑いも、全く気にせずに笑えるという(大笑)嬉しい礼拝となりました。

 賛美の中で聖霊様は私たちに自由の霊を解き放ってくださいます。ヤスミナさん(オーストリア出身)のバイオリンに合わせて「主はすばらしい・・・」としばらく主をほめたたえる賛美が捧げられました。スイス出身のティノさん(男性)は子供たちと踊っていました。彼は絵を描くのが得意です。

 またユニスさん(シンガポール出身)は聖霊様に示されたことをエペソ4章によって預言してくださいましたが、一致によってこの教会が神の家族としてラーメンのような状態であると(笑いました)たとえてくださいました。「それぞれの素材が一つとなっておいしいラーメンとなっています」と。アーメン!

 三人それぞれに聖霊様のお導きによって色々な預言により、私たちの教会を励ましてくださいました。様々な国境を越えて、全ての人々がイエス・キリストの御名のもとに集められ、ともに礼拝できるとは、なんとすばらしいことでしょう。

 私たちを何時も励まし助けてくださる主のお言葉を心から感謝します。

 この日の詳細を知りたい方は是非DVDを見てください。満々感謝!(た)
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# by mitiru-takae | 2017-04-19 14:35 | 満ちる | Comments(0)

No.232 いと高きところに、ホサナ/ホッとすることばは何語? 2017.4.9

いと高きところに、ホサナ

そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。<マルコ11:9、10>

 ホサナという言葉は、もともとヘブル語で「救い給え」という意味ですが、イエス様がエルサレムの町にロバの子に乗って入場した時、群衆は万歳の歓喜の声として「ホサナ」と叫んだのです。
 私たちも「ハレルヤ!」のように「ホサナ」と叫ぶのもいいですね。
 「ホザナ、ホザナ、ホザナ高らかに・・・・・・」のように、「ホサナ」という言葉はよく礼拝の中でも賛美の曲として歌われています。
 ちなみに今日は「棕櫚(しゅろ)の日曜日」と言って、イエス様がロバに乗ってエルサレム入場したことを記念する日です。この日から受難週に入り、次の日曜日はイースター(復活祭)を迎えます。
 しかし人々の心は不思議です。イエス様がエルサレムに着いた時は「ホザナ」と歓喜の声で迎えたのにもかかわらず(マルコでは多くの人々、マタイでは群衆、ルカでは大勢の弟子たち)、のちに群衆は「イエスを十字架につけよ」と叫ぶのです。
 私たちは、「ハレルヤ!、主よ、万歳!」と叫ぶとき、心のそこから「ハレルヤ!」と叫ぼうではありませんか。
 実際「ハレルヤ」といったその口で、「十字架につけよ」と言いかねない、人間の愚かさ、弱さがあります。イエス様は、人々と目が同じ高さになるくらいの小さなロバの上に乗って、「ホサナ」の声を聴いて笑っておられたのかもしれません。
 イエス様は、決して背の高い、馬やラクダの上から私たちを見降ろすわけではありません。私のすぐ近くにおられるお方なのです。

この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 <マタイ15:8>

 この御言葉のようにイエス様に、心の中を見透かされないように、真心こめて「ホサナ」と叫びましょう!わっはっは! (た)



ホッとすることばは何語?

主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。 <サムエル3:10>

 神様が語る言葉は、何語でしょう(笑)?
 すべての人にわかる天国語で、魂に語りかけてくださることも確かです。
 サムエルはしっかりと自分に語り掛ける神様の声を聴きました。ですから、返事も当然、当時サムエルたちの国語であった言葉を使って応えたでしょう。「お話しください」とサムエルが言うと、神様は、サムエルたちの使っている言葉をもって答えてくださったのです。
 いつも聖書の中で語る神様のおことばについては考えたこともなかったですが、ある先生のお話を聞いて「そうだ!」と思いました。その先生が、外国での礼拝で日本語のメッセージを聞いた時「とても感動した」とおっしゃっていたからです。
 「日本人が日本語を聞くって素晴らしいことなんだ、クリスチャンがこの地上で神様のお声を聞くってなんて素晴らしいんだ」と私も思わされたのです。
 神様は、私に「日本語」で語ってくださいます。私に向かって魂の中に語られたとしても、それは日本語です。たとえば「I love you!」ではなく、「愛してるよ!」です。私は日本人だからです(笑)。同じように、韓国の方には韓国語、アメリカ人なら英語でというようにですね。なんと「ホッ!」とする嬉しい語り掛けでしょう。
 使徒行伝にあるペテロたちが語った色々な国の言葉(異言)も、当時各地からエルサレムにきていた人々が、どれほど感激したかがわかります。その人々が聞いた言葉は自分たちの国の言葉だったからです。

人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。<申命記8:3>

 私たちが「ホッ!」とする言葉が何語であれ、私の魂に響くことばをもって主が語られるとき、その言葉は私の中で生きたものとなります。私の中で血となり、命となって神の言葉は生き続けます。一つの言葉で、一つの思いで、共に神様をほめたたえましょう。私たちの魂の「平安」も主の口から出る「命の言葉」によるのです。(た)
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# by mitiru-takae | 2017-04-12 10:32 | 満ちる | Comments(0)

No.231 楽しいマジックと伝道/私はいつでも大勝利者だ! 2017.4.2

楽しいマジックと伝道

わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。<箴言8:30、31>
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 3月26日(日)の礼拝にはフィリピン宣教師の横川知親先生(フィリピンに行ってもう37年にもなるそうです)が来てくださいました。実は先生が宣教師として派遣されている中津扇城教会の柴田勝正先生が3月22日に天に召されたために大分に帰ってこられていましたので、当教会にもお立ち寄りくださいました。

 横川先生は来てくださるたびにマジックを披露してくださり、種明かしをしたうえ使った品物までくださるという、子供たちにとっても、私たちにとっても大変嬉しく、楽しい先生です。

 私たちが子供のころは、よくデパートなどに行くと、見事な手さばきのトランプを使ったマジック(昔はやはり手品といっていたかな)などを口をポカーンとあけて見入っていたものです。その手品用の道具がたくさん目の前にあり、もらえるとなると、大人でもうれしくなります。

 ただ、遊ぶばかりではありません。これを上手に使って(匠とはいかないまでも)伝道に使うのです。
 横川先生曰く、「『イエス様を信じてください』と街頭に立って言い始めても、なかなか人々は聞いてくれませんが、マジックを用いると子供たちともすぐ仲良しになれますし、イエス様を伝えることができます。」

 音楽でも、ダンスでも、私たちのできる事で、主の御用に用いていただけると最高に嬉しいですね。私は何ができるのかと、自分を見つめてみることも大切かもしれません。
 毎日「信仰も伝道も楽しく」「わっはっは!」で過ごしたいものです!(た)



私はいつでも大勝利者だ!

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。<ローマ8:37>

 「ほかに神はいない!ほかに神はいない!・・・・・」
 松山の福音センターで行われたギャザリングの第3聖会の時の賛美の中で、この繰り返しのフレーズを何度も何度も歌い続けました。

 教会の賛美でもやってみたいと思いますが、このフレーズの最後のところでタンタンと足踏みを入れるのが、とても気持ちよいのだけれども、うまくリズムが取れるか?というのが大変難しいのです。それで多分礼拝以外の時間に皆でやってみたいと思っています(笑)。
 
 その後でしたか、聖霊様のお導きによるドラムの誘導(ドラムは引っ張っていける)で、テンポの早まったダンスと、賛美の声が響き渡ったのです。そのうち、菅原先生の掛け声に乗って叫びともいえる大合唱が始まりました。

 「勝利、勝利、大勝利!」

 会場には120人以上はいたと思いますが、ギャザリングでは珍しいことではなく「一致の霊がこれ見よがしに働く」現場をまたまた見せていただきました。
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 主にある勝利は、都合の良い時だけではありません。まるで負け犬のように見えるときでさえ、主は私を勝利者としてくださいます。
 私たちはすべてのことにおいて例外なく、勝ってなお余りある勝利者なのです。これは神の愛によって成り立つ特別な勝利ですね。大勝利!(た)










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# by mitiru-takae | 2017-04-05 13:56 | 満ちる | Comments(0)

No.230 神の奥義(おうぎ)/猫の耳 2017.3.26

神の奥義(おうぎ)

木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。<ヨブ記14:7>

 奥義(おうぎ)というと、究極の技という感じがして、凡人には巡り合う事がないもののように思えます。しかし神様がお創りになった私たちの世界を見渡してみると、天的な匠の業を見ることが出来るのです。

 神様が創られた自然の世界は、新しい命のために一つの命が死ぬという、死と命が神様の愛の帯でつながれた素晴らしい世界です。

 自然の中では死というのは決して、つらい苦しいものではありません。それは新しい命につながれていく過程の神様のなせる究極の業です。「死」という文字も、もともとは生きるものと死を結び併せたものらしいです。

 人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、すべての人に「死」が定まっていると聖書は言います。
 ですから人は罪によって「死」ぬ存在となってしまっているのです。

 このような死ぬ存在である私たちではありますが、実はイエス様を信じるだけで「死んでも生きる命」を永遠に持つことが出来るという、素晴らしい希望を持っているのです。

 イエス様は、「皆、私のところにきて命の水をのみなさい」といってくださっています。同じ何かをいただくなら、「死」さん(死は事象ではなく霊です)のところに行くよりも、イエス様のもとへ行って、永遠の命をいただいて生きたいですね。

罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。<ローマ6:23>

 私たちが絶望のどん底にあるときも、死んだほうがましだと思うときでさえも、 「死んでも生きる」ことを告げてくださるイエス様に望みを置くのです。 実に神の奥義は、私たちの魂を死から真の命に導く究極の業です。 


猫の耳

目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。<コロサイ4:2>

 私の目の前にあるカレンダーに猫の写真があります。眠りこけた地域猫の写真です。地域猫というのは、個人で飼っている猫たちとは違い特定の家があるわけでもなく、飼い主がいるわけでもないので、命の保証はどちらかというとありません。

 しかしその猫たちの眠りこけている様は見事にのんびりしています。猫はよく眠りこける動物だと思います(そんなところが大好きです)が、このカレンダーに書き込まれているジェーン・ポーリーという人の言葉がおもしろいのです。
 「眠りこけている猫を見ながら緊張感を抱ける人はいない」
 確かに、私はこの写真を見るたびに、心がほぐれるような気がしています。

 しかし、猫の耳を見ていると、眠っているはずの猫ですが、ダランとはしていないようです。まあ、そういう形状だと言えばそれまでなのですが、ちょっとでも物音がすると耳はその方向に動きます。
 猫はいつも仮眠状態で、熟睡はしないと聞いたことがありますが、果たしてそうなんでしょうか。長く猫と共に生活をしているとたまに、突っついても起きないことがあります。でもこれはほんとに「たまーに」ですね。
 猫の体は寝ていてだらーんとしていても、耳はいつもアンテナのように周りの状況を監視しています。そしていざとなるとすばやく行動することができるのです。 

 私たちも神様のお心にいつも敏感に過ごせるように、また、危険をいち早く察することが出来るように、聖霊様のアンテナを持たせていただきたいと思うのです。
 猫の耳ならぬ聖霊様のアンテナ(ちょっと猫と聖霊様とを一緒に並べては申し訳ないですが・・・笑)です。

 聖霊様は私が寝ているときでも、眼を覚まして働いてくださっています。満々感謝!(た)
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# by mitiru-takae | 2017-03-29 13:53 | 満ちる | Comments(1)

No.229 重い荷物 2017.3.19

重い荷物

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。<マタイ11:28>

 重い荷物を抱えて坂道を歩いて登るのはとても大変です。
 それに比べて車に荷物を載せて、坂道を運転して登るのは簡単です。

 大分には吉四六(きっちょむ)ばなしという頓智(とんち)のきいた民話があります。この話の主人公の吉四六さんは大分県臼杵市の野津町に住んでいた人らしく、この町にお墓があるといわれています。もしかしたらキリシタンだったかもしれませんね。「吉四六さんの天登り」という話もあるくらいですから、きっとそうだと思います。大分市では、オペラ化もされましたし230にも上るたくさんのお話があるそうです。
 私の記憶は定かではないのですが、たしかこの吉四六さんの話だったかと思います。ほんとにバカバカしいような、「馬に乗る」という話です。
 簡単に話してみますとこうです。

 あるとき吉四六さんは重い薪の束を馬に乗せて坂を下っていました。途中で、重い荷物を背負ってヨタヨタしている馬がかわいそうになり、自分が薪を少し背負ってやることにしました。
 薪を背負った吉四六さんは、歩くのかと思いきや、その薪を背負ったまま馬にまたがりました。「どうだ、俺が薪を担いでいるぶん、馬よお前も少しは楽だろう」というわけです。

 いや、ほんとに吉四六さんの馬を思う気持ちはよくわかりますが、ちょっと、本気でわからないのか、わかって言っているのか?よくわからない話です。(笑)
 聖書の中で、イエス様が律法学者にこのように言っています。
 
また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。<マタイ23:4>

 吉四六さんは、せめて自分で荷物を担いでいるのですから、馬にしてみれば重さは変わらないでしょうが、馬を思う気持ちはあるのですね。

 どんなに幸せそうに見えていても、人は皆それぞれ、肉体的、精神的に、重荷と言えるものを持っています。
 この重荷は、大きさや中身の違いこそあれ、持ち主にとっては大変な荷物をしょっていると感じている方が多いものです。そして、その荷物は時々、もてないほどに重くなるものであったりもします。そのうえ、たちが悪いというか、どうもそれは人の荷物のような気がして、何故、自分がそれを持っているのかさえも分からず、腹が立つこともあります。

 さあ、いったいどうすれば、荷を軽くできて、腹もおさまるのでしょうか?疲れが癒されるのでしょうか?

 律法学者なら、すべてを人に負わせてしまうでしょう。
 吉四六さんなら、馬や奥さんに支えられたり、抱えられたりしてもらっているのにも気づかず、自分では「重い荷物やなあ」、「うん、俺は思いやりがある、人助けだ」などと思って、頑張っているのかもしれません。吉四六さんは基本良い人ですから。多分……。

 さてイエス様は、吉四六さんとも、律法学者とも違います。
 「私のところに来て休みなさい」
 重荷を持っていると気づかされた時、苦労で心が傷ついた時、イエス様は、私のところに来なさいと言ってくださいます。
 わたしに近づいてくるものは、律法学者のように、重荷を負わせに来る者かもしれません。あなたの重荷を背負わせてくださいと言ってくる者は吉四六さんの真似をしてあなたの荷物をもっと重くするのかもしれません。
 このようにサタンはいつも私たちの隙を伺い、私たちを重い鎖でつなごうとするかもしれません。しかし、私たちのイエス様は、「来なさい」と言われます。
他に目もくれず、耳も貸さず、ただ休ませてくださるイエス様のところに行かなければなりません。
 イエス様のところに行くのは簡単です。「イエス様、私の重荷を一緒に背負ってください、お任せします。」と祈ればよいのです。イエス様は最高の自動車ですね。 (た)
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# by mitiru-takae | 2017-03-23 08:25 | 満ちる | Comments(0)