No.255 信仰 2017.9.17

信 仰

ひとたびは死にし身も  讃美歌532番

1.一度(ひとたび)は死にし身も 主によりて今生きぬ
 御栄(みさか)えの輝きに 罪の雲 消えにけり
 (折り返し) 
  昼となく、夜となく、主の愛に守られて
  いつか主に結ばれつ 世にはなき交わりよ

2.主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも
 現世(うつしよ)にあらじかし
  いずこにも御跡(みあと)見ゆ

3.昼となく、夜となく、主はともにましませば
 癒(いや)されぬ病(やまい)なく
 幸(さち)ならぬ禍(まが)もなし

 父(釘宮義人牧師)はこの讃美歌がとても好きでした。
 母が入院中、また施設にあずかってもらっていた時、よく父は、母のそばで、この讃美歌をうたっていました。

 何時だったか、母が入院していた時、二人で病室のベッドの横で讃美歌をうたった時のことです。 
 ぽつんと「孝枝、禍(まが)も幸なんだね」といいました。何度か聞いたことがあることばでした。

 この讃美歌の歌詞については、何度も何度も聞いたと思うのです。
 目と目で見つめ合うことくらいしかできない、ベッドの上の母を前に、私たちには何も言わないが、父の心は少し寂しかったのかな?と思いました。

 しかし違うのです。
 「幸なんだよ」
 「禍(不幸を起こす原因、災難、悪い事柄)は幸なんだよ」
 というのです。
 
 父は、「今幸せだ」と言って母に向き合いながら「わっはっは」と笑いました。

 「主が私と共にいてくださるということが、最高の幸せなんだ。禍(まが)だろうと、幸だろうと、天地が崩れ落ちようと、幸いなんだよ」
(もちろん反論はあります。具合の悪いのは自分ではないので…笑・・・しかし多分、父自身が病で倒れていても、同じことを言ったと思います)
 
 まるで禅宗のお坊さんかと思わせるような、父の「ことば」は不思議にストンと心に落ちます。この時私は「父の信仰は本物なんだわ」と再度思わせられるのです。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 <マタイ5:11>

耳から入ってくる「ことば」を、心の食べ物だとします。
 迫害のうわさや、さまざまな悪口という食べ物は、私たちの心を病気にします。

 しかし、それは私たちがそう思っているだけで、聖書は「幸い」と言っています。 この時、実はこの「幸い」は条件付きなのです。

 「私(イエス様)のために」、「義のために」、迫害を受けたり、悪口を言われたりしたときという条件です。つまり、イエス様が共にいなければ、「禍」はやはり「禍」です。「毒」は「毒」のままなのです。

 悪を善に変え、罪を義に変える、また毒を薬に変えるのは、私たちを愛してくださる全能の父なる神のなさる業です。

 このお方に従うならば、この試練の多い世の中でも、幸せに生きることができるのです。「悪いおとずれ」が来ても、恐れず、「良きおとずれ」を、見出すことができるのです。

 イエス様を信じぬくと、イエス様の信仰を通して働くものを見ることになります。
 私の座っていた場所でなく、イエス様が座っておられる場所に、気が付くと、移動しているのです。視座そのものが変えられているのです。
 父はそこに座っていたのですね。びっくり!(た)
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# by mitiru-takae | 2017-09-30 23:01 | 満ちる | Comments(0)

No.254 わき腹をつついて 2017.9.10

わき腹をつついて

すると、突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた。<使徒12:7>

 ヘロデ王は、ユダヤ人たちに取り入ろうと、ユダヤ人たちが嫌うペテロを獄に入れ、厳重に鎖でつなぎ、見張りを付けていました。

 ところが、大変な事件が起こってしまいました。
 朝起きてみると、あんなに厳重に鎖を付け見張っていたペテロがいません。逃げられるはずもない牢獄から、ペテロの姿は影も形もなくなっていたのです。
 それどころか、いくら探してもどこにもいません、見つけられないのです。

 面子丸つぶれのヘロデ王は、カンカンに起こって、見張りの兵隊たちを皆、殺してしまいました。
 最後には、このヘロデ王は、あまりに民の前で威張りすぎ、神様の怒りをかってしまいます。
 そしてついに毒虫にかまれて死んでしまうと言うのです。

 子供が喜びそうなお話です。
 ペテロが逃げるところなどは胸がスーッとします。

 しかし、この記事を読んでいくと、「なんてリアルな話なんだろう」と感じます。
 ペテロは、何度もこのことをみんなに話して聞かせたでしょう。
 この記事を書いたルカも、この話をペテロから直接聞き、また、ほかのお弟子さんや、 姉妹たちに「あの時はな~…」と、何度も聞いたり話したりしたのだろうと想像します。

  「わき腹をつついて…」
  「すると鎖が彼の両手から、外れ落ち…」
  「帯を締め…靴をはき…」
  「上着を着て、ついてきなさい」

 これらの言葉は牢獄の中で、み使いが言い、そこで起こっていることですから、まるでお話のようです。ペテロでさえ、「幻」と思うほどの不思議なことが起きているのです。

 しかしこの話は、幻とは思えないほど、起ったことをはっきりとかいています。

 聖書の中には多くの信じられないような奇跡の記事がたくさん出てきますが、おかしいと疑われたり、笑われたり、たとえ信じてもらえなくても、当事者にとっては、疑いようがない事実なのです。
 
すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。<ヨハネ9:25>

 この不思議な出来事も、私たちの日ごとに起こる、信仰的な状況として見てみると、いろいろなことがわかってきます。

 この三重の苦しみの中でも、神様は私たちを助け出すために、イエス様を遣わして下さいます。

 私をがんじがらめに縛っていた鎖は両方の手から外れ落ち、いつも私たちを横から攻めてくる悪しき者の間を難なく離れ、獄の戸の門は地上のカギではなく、イエス・キリストの持つすべてをあけることのできるカギで開かれ、私たちが見ればまるで、ひとりでに開いたように見える門を通って、解放に至るのです。

 最後に私たちを励ますイエス様の「今も生きているお言葉」です。
 「イエス様から頂く上着」を着ると、「さあ、でかけよう!」というイエス様の掛け声に押し出され、私たちは助けられました。

 次は助けるお手伝いをしましょう。
 私たちの教会は生きています。イエス様のお言葉が生きている教会だからです。
 奇跡を信じ期待し、イエス・キリストの福音を伝えに出ていきます。
 今日も出かけていきます。アーメン! (た)
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# by mitiru-takae | 2017-09-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.253 主の大庭に入れ 2017.9.3

主の大庭に入れ

聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。 <詩編84:1、2>

 日本の一戸建ての家では、なかなか大きな、広い庭は、望めません。
 よく見るのは、家の玄関先に植わった小さな花たち。
 またプランターを押し広げるようにして、咲き誇る花たち。
 鉢に植わった観葉植物が並んだ庭。

 神様の庭はどんな庭なのでしょう。
 この賛美を、ソロモンの神殿の前で歌うとします。それはそれは素晴らしい、美しく大きな神殿です。

 「とても麗しい。
 私の魂が喜び慕うほどの、素晴らしい、大庭。」

 と、歌詞通りの大庭を、自分たちの目で見て、美しさによいしれるかもしれませんね。 

 しかし、考えてみると神様がお創りになった大庭は、この地球、全宇宙の中に満ちています。

 大庭と書かれた素晴らしい場所を、私たちは神様の無限の世界と考えてみますと、私たちにとっての神の大庭は、恋い慕うばかりではなく、今、すでに私が立っているところであることを知ることが大切かと思います。

 慕っても慕っても手に入らない馬の目の前にぶら下がったニンジンのようであっては、嬉しくはありません。食べてこそ本当の力がみなぎり、走ることができます。
 
 私たちの心は既に、「神様の大庭に入っている」のであるし、また、私たちの魂の中の無限の場所では、「神様の素晴らしい大庭が広がっている」ということでもあるのです。
 だから、嬉しいのです。全身全霊が、喜んでいるのですね。

 いま立っているところで、主をほめたたえましょう。
 神の大庭に入るということは、「私の罪があがなわれ、清められ、神の前に立つことができる」ということです。

 先日の聖なる幕屋のお話の中で、旧約の時代は、「とばり」を入って動物に自分の罪を移してしまうところまでは、だれでもはいれます。しかしその向こうにある洗盤を通って聖所、至聖所にまでいけるのは祭司長のみですと言っていました。

 ところが今では、イエス・キリストが大祭司の役目を、十字架の上でたった一度で、終わらせてくださいました。

 私たちにとって、聖所、至聖所のある幕屋は、本当に素晴らしい、神の大庭になっています。まるでエデンの園ですね。

 イエス・キリストを信じ、新しく生まれ変わったものは、毎日、「神の大庭」で過ごすことができるのです。

あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。 <詩編84:10>

 この詩編の詩の作者は、このような素晴らしいところに居ながらも、謙遜を忘れません。実はこの門守という言葉ですが、原語ではただの「門に立つ」という意味だそうです。

 門守は偉い人ですが、門の前に立つだけの番人ならば、卑しいものです。
 天国で一番卑しい者は(天国で卑しいなどという順位があるとは思えませんが…笑い・・・)地上で一番偉い人よりも、えらい人でしょう!わっはっは!

 今日も、私の心の中にあるイエス様の大庭に、大輪の花を咲かせたいと思います。
 そして、また多くの実を結び、イエス様と共に、大喜びしたいものです。(た)
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# by mitiru-takae | 2017-09-27 10:35 | 満ちる | Comments(0)

No.252 「天の神様のいうとおり」 2017.8.27

「天の神様のいうとおり」

 「どちらにするか、天の神様のいうとおり」
 子供たちの遊びの中で、鬼を決めたりなど、選択をしなければならない時、「どちらにするか、天の神様のいうとおり」と言いながら数をかぞえ、どちらかを決めたりします。
 古くから、それぞれのお国言葉で、日本中に伝っている数え歌の一種です。

ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。<使徒10:14,15,16>

 食べてはいけないものは口にしないということは、ユダヤ人にとっては、子供のころからのごく普通の習慣であったかもしれません。
 私たちも何となく行っていた習慣が、ある日突然無理やり変えられたり、できなくなったりしたらどうでしょうか。
 子供たちは平気で変えられることも、大人にとっては、とても難しいことであったりします。
 特に食べ物は、直接口に入れるものですから、気持ち悪かったに違いないですね。嫌いな食べ物でさえ、箸をつけるだけで鳥肌が立ったり、気持ちが悪くなったりとかするのですから、ペテロにとってこの汚れた食べ物は、見るだけでも嫌だし、ましてや、とても食べられるものではないのです。
 いくら神様から言われたことであっても、すなおに「はい」と言えない、私たちの頑固な心がペテロの姿にそっくりです。神様は、3度も同じことをなさったのです。

 自分の力や、経験、知識、またどんなに知恵を働かせても決められないことが人間にはたくさんあります。
 世の中や、職場のこと、育児、教育、介護など、普段の生活の中で、100%自分の持っているものを働かせて、自信をもって行えることは、そう多くはありません。
 私たちはすべての判断を、自分や周りにいる人たちとですることができるでしょうか。
 いいえ、とても難しいことだと思います。 
 それでも、決めなければならないことは、必ず起こってくるのです。瞬時の決断のよい例が、自動車の運転です。
 また育児では、子供が小さいうちは、危険がいつも隣り合わせですから、そばにいる大人の判断は、時には子供の命にかかわってきます。

 私たちをお創りになり、私たちを一番よく知っているお方が、私たちにとっての正しい判断ができる唯一のお方です。
 私たちは神様のなさることを批判したり、知らないふりをしたり、反対したりすることはできません。何故なら、わたしには今起こっていることでさえ何もわかっておらず、先のこともわからず、何もできないからです。

このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。<使徒11:17>

 ペテロは、異邦人と言われる、自分たちとは差別していた人々に、自分たちと同じように聖霊が下るのを見てびっくりしました。
 神様の愛は大きいのです。地上のすべての人にその愛を伝えるために、イエス様を十字架につけ死なせました。
 ご自身の義を私たちの上に成就するために、ご自身を十字架につけたのですから、私たちにはこの大きな愛を妨げることなど、けっして出来ないのです。

◇父なる神様の私に対する愛を信頼し、神様をいつもほめたたえましょう。
◇イエス・キリストの「父の愛を信頼する信仰」が、私の中で命となり、私を生かし、私の信仰となって心の中で生きていることを感謝しましょう。
◇すべてのことを主に委ね、聖霊様のご意志を妨げないように、いつも祈っていましょう。

 いつでもどこでも「天の父なる神様のいうとおり」に生きて行きたいですね。 (た)
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# by mitiru-takae | 2017-08-31 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.251 モーセの幕屋とイエス・キリスト 2017.8.20

モーセの幕屋とイエス・キリスト

 聖書の中でも、特に旧約聖書は、なんか物語のようで、真実味がなく、史実には関係ないことのように思われがちですが、新、旧いずれも聖書はまことに真実で、イエス・キリストについて証ししている素晴らしい、わたしたちを永遠の命に導いてくださる書物です。

しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、
かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。<へブル9:11、12>

 先々週は、韓国からお二人の先生がお見えになり、3日間にわたり、聖幕(モーセの幕屋)について、詳しくお話をしてくださいました。

 創世記から出エジプト記までは結構読み進んでいけますが、レビ記、民数記、申命記に入ってくると、一人ではなかなか読み進んでいけません。
 しかしこのモーセ五書と言われるところを読んでいくと(旧約聖書全体がそうなのですが)イエス様の言動がよくわかってきます。

 今回は特にモーセの幕屋について、学んでいくことができました。
 ここにすべてを言及するにはあまりにも膨大な量と重さです。また事あるごとにお話ししていきたいと思います。

 ただ、一言で言えば、モーセの幕屋は、それ自体、「イエス・キリストを顕わしたものだ」ということができます。

 私たちの命の救いに至る行程がここ幕屋にあります。
 そしてこの幕屋を創るように、すべての材料、作り方、寸法など、動かし方に至るまで決められたのは、私たちの父なる神様です。

 そして、誰でもがこのモーセの幕屋に入ることができ、罪の悔い改めと罪からの贖いが動物の犠牲をささげることによって可能であったということを知ることができます。

 しかしモーセの時代や、神殿のあった時代、またイエス様が、十字架にお架りになって大祭司の務めを終えるまでは、一般の人は犠牲をささげるところまでで、聖所に入れるのは祭司(レビ人)だけでした。至聖所に至っては年に一度、大贖罪日に大祭司が動物の血潮をもってとりなしに入ります。

 この人々の罪をとりなすことのできる方が大祭司しかいなかったとき、私たちは、罪を犯すたびに、私の命の代償がいったわけです。

 この大祭司の役目として、たった一度、ご自身の命をささげたイエス・キリストによって、今の私たちはこの至聖所に入ることができ、神様との和解どころか、顔を見て語ることができるようになりました。また、イエス様ご自身であるこの幕屋が今、信じる私たちの心の中にあるのです。

 話が難しくなりました。また続きは図を見ながら少しずつ…(笑) (た)










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# by mitiru-takae | 2017-08-26 16:41 | 満ちる | Comments(0)