No.238 論破と受容/東京ファイヤーカンファレンスに行ってきます 2017.5.21

論破と受容

 今、早天祈祷会ではヨブ記を毎日一章ずつ通読していますが、びっくりするのは(私たちも同じことをしているのですが・・・)ヨブは自分の正しさを、神と友人に論破してつめよっています。
 友人も負けていません。エリフが出てくるまでは、神様そっちのけで、論破合戦の様相です。とうとう、友人たちは黙ってしまいます。

 論破というと、理論的なつめ将棋のようで、言い負かされる方にしてみれば、攻撃されるばかりでこんな嫌なことはないですね。たとえ認めたくなくても、言い返す余地がないわけです。
 しかし、たとえ論破して勝ったとしても、それがすべて真実というわけではありません。

 また反対に真実を勝ち取るためには、実証出来るものと論破で相手を打ち負かす弁護人のように、論破することは時に必勝をもたらす攻撃のアイテムでもあり、守りの戦術でもあるのです。

教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。<テトス1:9>
(そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。【新共同訳】)
  
 論破では勝てなくても、受容して勝つということがあります。
 あなたが親なら、子供のいうことをとりあえず受容(聞いてあげる)してあげることができますね。そうすると、そのあとで正しいことをきちんと話してあげられます。子供も聞いてくれるでしょう。

 とことん相手の心の中を受け入れてあげることが出来れば(悩み、理屈、わがまま、理想、独りよがりの喜びから、悲しみまで、挙げればきりがありませんが)、自分のうちに閉じこもっていたその人の暗い心を、外に向けることが出来ます。
 文句でもなんでも、言葉にして吐いてしまうならば、案外解放されます。

 それは先週のモーションを起こすことに似ています。(よく父は、「話す」という言葉はもともと「やまとことば」で「離す」という意味がありますと言っていましたが・・・。)

 ただ、これを100%受けいれてくださるお方は、世界に一人しかいません。イエス・キリストです。

 そのお方の真似をして、私たちも隣人を説き伏せるのではなく、少しでも、聞いてあげられる広い心を持てるように、日々の訓練を惜しまない人となりましょう。

 神様の言葉をきちんと守り行える人こそ、論破においても対抗できる人です。

 論破することも、受容することも、すべて神のお言葉(イエス・キリスト)によって出来るのです。(た)


東京ファイヤーカンファレンスに行ってきます

 ベルサール高田馬場でおこなわれる東京ファイヤーカンファレンスには、ラインハルト・ボンケ師の後継者であるダニエル・コレンダ師が来られます。

 大分はやはり地方で、日本国内といえども、なかなか行きたい全ての聖会や催しには参加が出来ません。
 しかし、海外に行かなくても、素晴らしい先生方に触れることが出来るので、教会の礼拝に後ろ髪をひかれながら、今日もまたまた東京に(喜んで!)行かせていただいています。

 日本各地でイエス様のために仕え働いている先生方にお会いできることは私にとってとても光栄なことであり、嬉しい限りです。

 また新しい証しや奇跡、癒しに出会えることを期待して行ってきます~!お祈りください。 (た)
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# by mitiru-takae | 2017-05-24 10:23 | 満ちる | Comments(0)

No.237 ゆるし/百人隊長の目線 2017.5.14

ゆるし

互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。<コロサイ3:13>

 対人関係で悩むとき、たとえ相手が悪くても、「ゆるしなさい」とよく言われます。しかし、簡単に「ゆるしなさい」と言われても、なかなか心からゆるせないのが私たちです。
 「ゆるしなさい」といわれて悩む人は多いと思いますが、では、反対に「ゆるしてください」と言われたらどうでしょうか。
 自分が嫌いな人に、また赦せないと思っている人に、直接手をついて謝られたとき、あなたならどうするでしょうか。
 「やめてください、何とも思っていませんよ。」
 「私にも少し非があったのですから、そんなに謝られても・・・」と口では言います。
 しかし、本当に赦せているのでしょうか。ちょっと疑問です。
 この時、相手に面と向かって「赦します」と声を出して言うことです。もじもじ、ぐずぐずと言葉を濁してはいけません。(父がよく言っていた言葉です)
 実は、この動作(モーション)は、相手に「赦します」と言っているように思えますが、実は赦せない自分に対して言っている事にもなるのです。とても不思議ですが,相手にきっぱり「赦します」といったとたん、本当に赦せてしまうのです。ここに感情(エモーション)的にも赦せてしまう不思議があります。

 心の中には辛かったり、苦しかったり、悔しかったりした傷が残っています。傷が癒されて初めて私たちは人を赦すことが出来ます。相手を知らず知らずのうちに攻めていた自分の心をまずイエス様に癒していただくことです。「はい、赦します」とはっきり言うことは、自分の傷を癒していただく素晴らしい恵みの「ことば」をいただくことでもあるのですね。
 「ごめんなさい」、「赦してください」と言えた時も同じです。
 主の御前にお互いを赦しあえる砕かれた素直な心を持つ人になりたいですね。(た)



百人隊長の目線

イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。 <マルコ15:39>

 「舟の右側」に谷口和一郎氏(「舟の右側」誌編集長)の「風知一筆」という巻頭記事がありますが、5月号では「下に立って見る」という文章が載っていました。

 谷口和一郎氏は(要約しますと)「どうして百卒長は『この方はまことに神の子であった』という告白が出来たのか。それは彼の信仰告白であり、聖霊による告白だ。『百卒長は下から見上げていた』という場所が十字架の下であったということ、それも真正面、下からイエスを仰ぎ見る場所であったからだ。
 
 ここで神を礼拝する者となるほかにイエスを理解できるところはない。またそこでこそ聖霊は働いてくださる。」【「舟の右側」5月号参照】と言っています。

 私たちは、下からではなくて「上から目線」とよく言われたり、言ったり(笑)しますが、時には、「上から目線」どころか、親や上司に向かって、「何故私を支配するのか」と思ったりもするのです。その人の足元に座らなければ、見上げることはできません。

 イエス様を仰ぎ見る十字架の真下で、私たちの高慢な罪のためにご自身の命を捨ててくださったイエス様を仰ぎ見るとき、私はイエス様のように死ぬことはおろか、人のため小さな犠牲でさえもなかなか払うことができない、ただ十字架を仰ぎ見るだけの小さな者であること、つまり私の本質を知らされます。

 裏切り者のユダでさえ、神様の救いのご計画の中で大きな働きをさせられたと言ってもいいでしょう。そのユダ以上に私たちは毎日イエス様を裏切っているかもしれません。

 私たち一人一人がどのように小さく罪深いものであったとしても、神様が十字架の愛へ私たちを導くことが出来るのは、イエス様が誰よりも一番へりくだってくださったからです。 (た)
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# by mitiru-takae | 2017-05-18 08:28 | 満ちる | Comments(2)

No.236 JOY JOY JOY/私は神の最高傑作 2017.5.7

JOY JOY JOY

「春の信徒一泊セミナー・大分ローカルギャザリング」

 4月29日に大分ローカルギャザリング、4月30日から5月1日にかけてキリストの福音大分教会の恒例の春の一泊セミナーと、二つの聖会が連続して行われました。
 今回は、久保有政先生をお招きしてのギャザリングで、一泊セミナ―においても第一セミナーで久保先生に来て講演していただきました。

 私自身はプログラムが重なってちょっとアタフタいたしましたが、聖霊様は、心身共にしっかりフォローしてくださいました。
 それに、信徒一泊セミナーですから、私ではなく信徒の皆様が中心です。おかげで、導きによって集められた皆様方によって素晴らしい時を与えていただき感謝でした。
 特に一泊セミナーの最後の集会は、喜びが頂点に達し、集った人数の数十倍のエネルギーが噴出したかのように、賛美が止まりませんでした。

 今回のテーマは、ギャザリングから始まり、さらにセミナーのプログラムが進んでいく中で、はっきりしてきました。こういうことも珍しいかと思います。

 与えられたテーマとは、「徹底した悔い改めと喜び」です。
 終わりの時代、私たちは主に立ち返ることを徹底しなくてはなりません。
 「みことばの学び、交わり会」にてネヘミヤ記8章を共に学び、また続けて12章まで読み進む中で、エズラ、ネヘミヤの時代に、エルサレムの町の城壁を再建、修復した人々のリバイバルの様相を見て、私たちも爆発的な喜びをいただいたのです。
 聖霊様の臨在を全身に受けることが出来た喜びのセミナーでした。(た)

そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。<ネヘミヤ8:10>
  
捕囚から帰って来た会衆は皆仮庵を造って、仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの日からこの日まで、イスラエルの人々はこのように行ったことがなかった。それでその喜びは非常に大きかった。 <ネヘミヤ8:17>
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私は神の最高傑作
 
手作りの大好きな人はたくさんいらっしゃると思います。有名な陶芸家や、画家でなくとも、創作することはとても楽しいことです。
 私も、今はほとんど何かを創るということがなくなりましたが、若いころは、手造りが何でも好きでした。特に、皮革にカッターで線を刻み、刻印していくアメリカンカービングというものにはまったこともあります。
 また、紙粘土で創るお人形や、ブローチ、はたまた、賛美の弾き語りをしたいがために、作詞作曲を我流で始めたりもしました。とにかく形あるなしにかかわらず、モノを作るということが大好きだったのです。
 最近、昔の松岡欣也先生の賛美を収録したCDがでてきました。
 毎日聞いていますが、その中のメッセージに「何億、何十億という私たち一人一人の人間の顔を、神様は、楽しんで造られました。」と語っているところがあります。
 「神様は、楽しんで、それぞれ違う顔を造られたのです。顔どころか、その人の生まれてくる環境のすべてを色々考えて造ってくださいました。その土人形に神様は『愛の命の息』を吹き込んでくださいました。そこで人は神様の愛によって生きるものとなったのです。『人は神様の愛によって生きる』という目的をもって造られたのです。」

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。<創世記2:7>

 物つくりをしていると、ときどき自分でも「お~、これはいいなあ」と思うようなものが出来ます。
 ところが神様は違います。
 何百、何千、何億あろうともすべてが最高傑作なのです。
 私は神様の最高傑作です。ハレルヤ!(た)




















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# by mitiru-takae | 2017-05-10 12:33 | 満ちる | Comments(0)

No.235 神の知恵/天国でのステータス 2017.4.30

神の知恵

われらの主は大いなる神、力も豊かであって、その知恵ははかりがたい。<詩編147:5>

 私たちの普段の生活の中では、「あー、よかったわ」と言えることが結構あるものです。
 先週の主日礼拝の後、私の妹が足の親指を骨折、爪を裂傷するという事故が起こりました。
 先ず神様に一番に祈り、傷を洗い、傷テープを買いに行き貼るという、見事な連携プレーがなされました。本人の「大丈夫」という声に、みなそこで一旦落ち着いたわけですが、そのうち傷テープの内側から止まったと思っていた血がまたまた出てきていました。
 とりあえずその日の休日当番医を調べ、その中の整形外科に、電話でいつでも診察できるのかの確認を取っていたので、「やはり病院に行った方がいいよ」の声に本人も重い腰を上げ病院に行くことになりました。
 私たち素人には、よくわかっていないことが多いのですが、案の定、その日の内に病院に行って良かったということがわかりました。というのも、病院で骨折が判明し、医師の話では骨折と傷を同時に受けた場合、骨髄炎にかかる危険性があり、6時間以内に治療を始める必要があったということだったのです。

 どこの病院にかかるのか、また、どのような治療を受けるのか、医師は、スタッフは、環境や設備は、といった、自分の判断ではどうにもならないことを、私たちは知らぬ間に神様の御手によって備えられていることをいつも知らされます。
 今回もまさしくその通りのことが起きました。すべてのことが一つ一つ神様の御手で、準備されているのです。この知恵は人間には測りがたいことです。
 たとえ、私たちの思い通りになっていかないとしても、神様の栄光が顕わされるために、私たち一人一人が直接、様々な事態にかかわっているのだということです。
 隠れたところからいつも私たちを見て、守ってくださっている神様の愛と知恵と業とを、心から感謝しています。
 「ありがとう主よ、何時も助けてくださり感謝します。」(た)


天国でのステータス

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。<マタイ5:3>

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。<マタイ5:10>

喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。<マタイ5:12>
 
 私の目の前にある地域猫のカレンダーにある言葉がいつも楽しい。
 「この世でどう猫に接するかが、天国でのステータスを決める」(ロバート・A・ハインライン ※SF作家)
 猫に対する接し方と言っても、様々ですが、基本「猫が好き」、「猫が大好き」、「猫が好きでたまらない」という、好きさ、言い換えれば猫に対する愛情の度合いが、ステータスを決めるというのでしょうか(笑)。
 
 猫ではありませんが、私たちの愛するイエス様は、天国は、貧しいものや、イエス様のために迫害されてきた人々のものだと言います。「天国はあなたのものだ」と言ってくださるのですね。ステータスどころか、それ以上のものです。

 義のために迫害?とちょっと戸惑われる方は、心の貧しさで勝負しましょうか。
 現実収入が少なくて貧しいと思っている人も、喜びましょう!天国はあなたのものです。
 この世で私たちが戴いている環境が、いかに厳しいものであったとしても、寝ている猫の姿を見てホッとするように、イエス様のお姿を心の眼で見ると不思議に平安と力が湧いてきます。天国での希望をいただくことは私たちにとって喜びです。

「・・・主を喜ぶことはあなたがたの力です」。<ネヘミヤ8:10下>

 はい! 主を喜ぶことは私の力です。
 喜びます~!(た)
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# by mitiru-takae | 2017-04-30 23:00 | 満ちる | Comments(0)

No.234 わが魂よ主によって喜び楽しめ/世界はすばらしい 2017.4.23

わが魂よ主によって喜び楽しめ

わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。<ヨナ2:7>
 
 ヨナは自分の魂が弱っているのに気づきました。「自分のうちにある魂を客観視することができる」ということは素晴らしいことです。
 自分の心が弱っているという自覚はなくとも、なんだか元気がないという感覚は誰しも経験したことがあるものでしょうし、うつ病ではないけれど、「なんだか憂鬱だなあ」というような時など、簡単には切り替えができないものです。
 しかし、もしそのような時、自分の心の中を客観視できるとすれば、自分を棚に上げてでも、他人になら言えると思える正攻法の言葉をかけてあげられますね。
 このように自分に言い聞かせます。
 「『私の心よ、元気になれ!』と大きな声で言ってご覧なさい!」
 「『私は元気だ!』と言ってガッツポーズで笑ってみよう!」
 「肯定的な言葉を使うようにしましょう!」
 ここまでは、普通に世間の人たちも言います。いえ、わたしたちクリスチャンよりももっと上手く実行しますね。そのために特別な訓練を受けるほどです。

 ではイエス様を信じている人たちとはどこが違うのでしょうか。
 私たちには「弱い時こそ強い」という信仰があります。本当の強さは、イエス様の命の中で生きているときの強さです。この強さはいつもイエス様とともにいて初めて分かる強さです。私の弱さはかえって神様の強さを際立たせるのです。
 イエス様を信じていると、ヨナのように自分が弱い時、心細い時など、イエス様を覚えイエス様と語り、イエス様と神の宮で共に過ごすという体験をする機会が起こってきます。私が弱い時はイエス様が非常に近い時でもあるのです。
 こんな時こそ信仰によって神様の御前に告白しましょう。心の中に特別な賜物をいただけます。

わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。<イザヤ61:10>
 イエス様は私たちを花嫁のように愛してくださり、心を喜ばせ楽しませてくださるのですね。(た)


世界はすばらしい

 もうちょっと時期が過ぎてしまいましたが、日本の4月初旬は、一気に咲いて散ってしまう、桜の花が大変美しい時です。
 桜は、花が咲きだすと、今まで薄く見えていた幹の色が急に黒っぽく見えてきます。私は満開の花の間から見える濃いこげ茶と薄いピンクの対照的な色合いが大好きです。そして花が散り黄緑の葉が出てくるころになると、そろそろ5月の匂いがしてきます。

地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。<創世記1:12>

 創造主なる神様は、植物を3日目にお造りになりました。
 1日目に光をお造りになったとき、その光は闇と混ざり合うことはありませんでした。神様は光と闇を分けられたと聖書に書いています。2日目に神様は水と水をも分けました。水と水の間に大空を造られたからです。
 3日目には大空で分けられた下の水を一つの所に集め、海を造りました。そして乾いたところを陸と名付けました。そこに種類に従って色々な植物を生えさせました。そしてそれらはすべて「良し」とされたのです。
 この後、神様の創造の業は続きますが、人間を最後にお造りになったとき、造られたすべての物を見て神様は「はなはだ良かった」とおっしゃいました。
 すべてのものは「神様が創造した」のです。この世の中で人間が自分たちだけで造り出したものなどありません。全ては神様が用意してくださったものでできています。
 
 季節を彩る花々をみる時、私たちは神様の造られたものを楽しみ、喜ばせていただき、神様の造られた世界を感じることが出来ます。
 たとえ世の終わりが近い時であっても、悪しきものに惑わされることなく、私たちに与えられた素晴らしい神様からの恵みをほめたたえ、喜んで過ごしたいですね。(た)
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# by mitiru-takae | 2017-04-27 08:55 | 満ちる | Comments(0)